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社説・コラム

『論』 原爆の図丸木美術館50年 他者の痛みを知るために

■論説委員・森田裕美

 画面の奥からうめき声が聞こえる気がする。熱や臭いまでも伝わってくるようだ。

 広島市出身の丸木位里(1901~95年)と妻の俊(1912~2000年)が1950~82年に共同制作した「原爆の図」。ほぼ等身大で描かれた群像は、原爆が人間にもたらした痛みを生々しく伝える連作である。

 大半を所蔵・公開する「原爆の図丸木美術館」が、夫妻の暮らした埼玉県東松山市に開館して、5日で半世紀を迎える。

 ここに来れば「原爆の図」を見られるという場所を―。夫妻が作品のために建てた美術館は、行政や企業に頼らず、「原爆の図」を大切に思う市民からの寄付などで支えられてきた。建物はハコモノありきではなく、作品の大きさに合わせた造り。作家でなく作品の名前を冠しているのも珍しい。

 そもそも「原爆の図」の成り立ちからしてユニークといえるかもしれない。きのこ雲の下の惨状は、夫妻が直接見た光景ではないからだ。疎開先の埼玉で、位里の郷里に新型爆弾が投下されたと知って数日後に広島へ。家族をはじめ多くの被爆者から記憶を聞き取り、生き地獄を再現した。二人いわく「大衆が描かせた絵画」だ。

 第1作を発表した50年といえば原爆被害の報道も禁じられていた占領下。そんな中で夫妻が制作と並行して、全国巡回展を開いたのも興味深い。同館の岡村幸宣学芸員の調査では、スタートから4年間に全国170カ所以上で開かれ、170万人以上が見たというから驚きである。

 美術館ができてからも「原爆の図」は求めに応じ、国内外を旅してきた。そんな活動と一体の絵画は、「反戦平和の象徴」として広く知られる一方、芸術の側面からは、あまり語られてこなかった。

 しかし近年、アートとしての評価も高まっている。東日本大震災と福島第1原発事故で、命に向き合う芸術表現に対する関心が深まったことも背景にあるだろう。

 海外でも被爆70年の一昨年は、原爆を投下した米国に渡り、昨年はドイツ・ミュンヘンでの現代美術展に出展された。いずれも「政治か芸術か」という二元論を超えて受け入れられたという。それは、「原爆の図」が被爆という歴史の記憶でありながら、見る者に多様な「痛み」を想像させる現代美術として捉えられているからではないだろうか。

 いま、国内外に「自国第一主義」やその裏返しとして他者を排除する空気が広がる。「原爆の図」のような、他者の痛みを「わがこと」として捉える力が弱まっているのではないか。

 岡村学芸員は「実際に体験をしていなくても他者の痛みに近づこうとした丸木夫妻の思いを、今こそくみとりたい」と話す。なるほど、夫妻はこんな時代が来ることを予期して「原爆の図」を描き、美術館を残したのかもしれない。

 同館は50年の節目に「原爆の図保存基金」を立ち上げ、市民に寄付を呼びかけている。将来に向け二つの計画を実現するためだ。

 一つは温湿度管理や虫害対策のできる展示室と収蔵庫を備えた新館建設だ。現在の建物は「自然な状態で見てほしい」との夫妻の思いから造られたため、美術品保管の面からは設備が不十分だ。虫食いや紫外線などによる傷みが避けられず、このままでは永続的な展示は難しくなる。

 もう一つは、デジタルアーカイブの整備という。丸木夫妻の千点を超える絵画作品に加え、著作や書簡、発行物などの膨大な資料を公開できる状態に整理し、インターネットなどでの発信を目指す。作品と共に、制作過程や社会にどう受容されてきたかを伝える記録を残すことは、今を生きる世代の大きな役割だろう。

 被爆から72年。皮膚感覚で痛みを語ることができる体験者は年々減っている。広島でも体験していない世代が原爆や戦争の記憶を受け継ぐ限界を、嘆く声がある。  でも丸木美術館で「原爆の図」に向き合うたびに思う。想像力で迫り、伝えることはできる―。丸木夫妻の歩みは、継承の可能性に気付かせてくれる。

(2017年5月4日朝刊掲載)

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