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核なき世界への鍵 5・27から1年 <下> 被爆者の思い 廃絶へ「目覚め」願う

 「核兵器禁止条約」の交渉経過を知らせるメールに目を通し、条約制定を求める署名運動の戦略を練る。日本被団協の田中熙巳(てるみ)事務局長(85)=埼玉県新座市=は毎日のように東京都港区の事務所に出勤している。「正念場が続く。頑張らないとね」

 13歳の時、長崎市の自宅で被爆。自身は軽傷だったが、祖父や伯母たち親類5人を奪われた。苦学して進んだ大学では「原爆とは何か」を知ろうと理学部を選んだ。卒業して東北大工学部で研究、教育に打ち込む傍ら、1970年代から被爆者運動に注力してきた。

 被爆証言や国際会議のため渡米を重ね、核超大国の「核信仰」の根強さも、ヒロシマへの無関心さも知る。そして昨年5月27日、被爆者代表の一人としてオバマ大統領(当時)の広島訪問行事に招かれ、平和記念公園(広島市中区)であの演説を聞いた。

 「空から死が落ちてきて」という米国が原爆を落とした事実への言及を避けた語りだしに反発を覚えたが、全体の訴えには感銘したという。「技術の進歩はわれわれを破滅に追い込む可能性がある」と警鐘を鳴らし「道徳的な目覚め」を説いたから。「ずっと、オバマ氏と同じ思いを抱いてきた。彼はあれを言うために広島へ来たんだ、と思ったんです」。米国の核政策の変化に望みをつないだ。

 だが、米政権内での検討が報じられた核兵器の「先制不使用」宣言は聞けずじまい。包括的核実験禁止条約(CTBT)は批准しなかった。オバマ氏は去り、後任のトランプ氏は核を巡る危うい発言を繰り返す。

 事務局長に就いて17年。多くの仲間が逝き、ことし3月に、広島で被爆しながら医師として治療に当たった日本被団協顧問、肥田舜太郎さんが100歳で亡くなった。76年、国連本部で核兵器禁止を訴えるために共に渡米して以来の付き合い。尊敬する先輩だった。

 自身は世代交代を意識し、海外出張を藤森俊希事務局次長(73)たち後進に任せている。「米国の核保有も日本の『核の傘』政策も、変えさせるのはその国の国民。被爆者は粘り強く核兵器被害の実態を伝え、道徳的な目覚めを働き掛け続けないと」。オバマ氏訪問を経て確認した信念を引き継いでほしいと願う。

 ただ、被爆から72年。平均年齢は80歳を超え、「若い被爆者」でさえ、直接あの日の体験を伝えられる時間はそう残っていない。

 元原爆資料館長で、自らの被爆体験を語り続ける原田浩さん(77)=安佐南区=は、オバマ氏の来館時に被爆証言を聴く機会がなかったのを今も惜しむ。「壊滅させられた街の遺構を見せる手もあった。迎えて満足するのでなく、政治指導者にも市民にも行動を促すための伝え方を問い直す時ではないか」

 被爆者の訴えは禁止条約交渉へ非保有国を突き動かす原動力となり、来月始まる第2回交渉で議論される条約草案の前文は「被爆者」の文言を入れてその苦難と努力に触れた。核抑止力に安全保障を頼る保有国や日本をも「目覚め」させられるか。被爆者はなお、使命感と焦りを募らせている。(田中美千子、水川恭輔)

オバマ氏のヒロシマ演説
 原爆慰霊碑前で17分間に及び、「核兵器なき世界」を追求する勇気を持つよう核保有国に呼び掛けた。冒頭では、原爆投下を「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて世界は変わった」と表現。多数の市民や朝鮮半島出身者の犠牲に触れ、「広島と長崎は核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの始まりとして知られるだろう」と締めくくった。原爆投下を巡る被爆者への謝罪はなかった。

(2017年5月25日朝刊掲載)

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