被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 前田正弘さん―顔が腫れ兄も気付かず

前田正弘(まえだ・まさひろ)さん(79)=広島市佐伯区

体験を次男がアニメ、長女は漫画に

 広島市が市民から募り、被爆5年後にまとめた「原爆体験記」に、前田正弘さん(79)の被爆体験は載()っています。ぺしゃんこの町並み、火の中を逃(に)げる人々…。7歳の時に見た恐(おそ)ろしい光景です。親になってわが子に伝えようとしても、怖(こわ)がられる現実にもどかしさを感じました。それでも次男はアニメ、長女は漫画(まんが)で記憶をつないでくれました。

 当時、三篠国民学校(現三篠小、西区)2年生。校舎を軍が使っていたので、教室代わりの近所の光隆寺(爆心地から約1・7キロ)へ通いました。原爆投下の日の朝は、境内の南側で同級生と遊んでいました。

 飛行機の音を聞き、空を仰(あお)ぐと、針を突(つ)いたように光る三つの影。その時「何をしよんね」と怒(おこ)る女性の声に振(ふ)り返りました。同級生が塀(へい)をはうトカゲに石を投げ、外れて隣(となり)の家の窓ガラスを割ったのです。

 目を落とした瞬間(しゅんかん)にピカッ。ものすごい光に包まれました。「死んだかな」。目を開けると垂れ下がった電線が見え、10メートルも飛ばされていました。怒っていたはずの女性は髪(かみ)を膨(ふく)らませ、防火水槽(すいそう)の陰(かげ)に子どもを呼び寄せていました。

 警防団に促(うなが)されトラックに乗った後、徒歩で新庄橋に。対岸の火の勢いが強く、川に入って渡(わた)りました。さまよっていると、学徒動員されていた崇徳中4年の兄良孝さんに会います。「お兄ちゃん」と呼び掛(か)けても分かってくれません。自分が頭にやけどを負い、顔も腫(は)れていたからでした。その夜は古市町(現安佐南区)近辺の民家に泊(と)まらせてもらいました。

 翌日、両親と妹、祖母に再会。進徳高女に通い、鶴見橋近くで建物疎開作業中に被爆した姉ミヨ子さんは亡くなったと、後に分かりました。親戚(しんせき)宅に身を寄せた後、秋からバラックで生活。やけどは癒(い)えましたがケロイドとして残りました。

 崇徳中・高に進み、美術部に所属。米国の財団の募集(ぼしゅう)に応じ、世界平和をテーマにした絵を描きます。「戦争のない素晴らしい時代が来る」。胸の高鳴りとともに、地球を中心に各国の国旗を並べた絵などを出品し、5年連続で入賞しました。それがデザイナーの道に進むきっかけになりました。

 25歳で結婚、3人の子を育てました。毎年8月6日が近づくと原爆の恐ろしさを話しましたが、怖がらせてしまいます。映像として残そうと、アニメ化を目指したことも。あの日逃げた道のりを8ミリフィルムで撮影(さつえい)しましたが実現しませんでした。

 その目標を次男の前田稔さん(46)が、19分のアニメ作品を作ることで達成します。家族で協力して、10年かけて2002年に完成させましたが、内容の中心は被爆後の惨劇(さんげき)でなく、被爆前の子どもの日常でした。ほのぼのとしたシーンが続き、原爆投下で暗転して終わります。

 父の体験を等身大に描くことで、小さい子どもにも自分のことと受け止めてほしい。それが息子の思いでしたが、悲惨(ひさん)な場面が極力出ないことに最初、不満でした。

 完成後の上映会で鑑賞(かんしょう)した前田さんは「もっと見たい」という観客の声に驚(おどろ)きます。「『もう聞きたくない』という反応よりも大事なことだった」。そんな親子の姿を、長女のイラストレーターまえだなおこさん(44)が500ページを超(こ)す漫画にしました。

 「少しでも原爆の恐ろしさを想像してもらえる。周囲の人たちが消えていった戦争は二度とやっちゃいけん」。少年の頃の鮮明(せんめい)な記憶を胸に願います。(山本祐司)

私たち10代の感想

できる方法で平和貢献

 被爆証言、アニメ、漫画と、平和の大切さを親子で伝える前田さん一家。伝えたい内容や描き方は、親子それぞれでしたが、前田さんは「自分の気持ちを子どもがくんでくれた」とうれしそうでした。私は、自分のできる方法で平和に携(たずさ)わればいいと学びました。私も被爆者の体験を聞きっぱなしにせず、ノートに記して感想を記事にまとめることで実践(じっせん)します。(中3佐藤茜)

衝撃物語る鮮明な記憶

 電線の垂れ下がった被爆直後の光景が忘れられないと話す前田さん。当時の前田さんと同じ小学2年のころの自分に、これほど鮮明に思い出せる記憶はないのではないかと思いました。原爆がどれだけ幼い子どもに衝撃(しょうげき)を与えたのかが、分かります。「忘れてはいけない」というメッセージをつなぐため、自分も家族や周りの人に話し続ける大切さを感じました。(高2岡田実優)

(2017年7月3日朝刊掲載)
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