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連載・特集

被爆の記憶 僧侶からの伝言 <上> 徳正寺(江田島市能美町) 護山純孝前住職

恨み断ち切る慈悲の心 生かされた命 平和な世 願う

 原爆投下からことしで72年になり、惨状を直接知る僧侶が年々少なくなっている。広島に根差す宗教者にとって、平和の尊さを説き続けるのは責務の一つであり、その思いの継承は大きな課題と言える。広島県内で寺数の多い浄土真宗本願寺派の僧侶2人に、当時の記憶や、次世代に伝え残したいメッセージを聞いた。(桜井邦彦)

 徳正寺の前住職、護山純孝さん(87)は本願寺派の宗門校、旧制崇徳中(現崇徳中・高)4年生だった。8月6日の朝は爆心地から約4キロ離れた南観音町(広島市西区)の軍需工場に学徒動員され、被爆。防空壕(ごう)に隠れ、けがを免れた。

忘れられぬ光景

 その日は下宿していた中広町(西区)に戻り、焼け跡にござを敷いて一夜を明かした。翌日、爆心地を通って能美島へ。帰る道中に見た光景が忘れられない。

 一帯には折り重なった被爆者の死体。顔や手足が膨れ上がっていた。その中に、真っ裸で焼け死んだ女性がおり、体には焼け残った瓦が乗せてあった。「あれほどの惨状下でも、人には優しい心があると思うた。女性は死んで意識がないじゃろうが、『このままでは恥ずかしいじゃろう』という優しい心配りに感じ入った」と振り返る。

 道中、太田川の堤近くで水を求める負傷者のために井戸の手動ポンプを押した。動く力すら失った負傷者の列ができ、水を飲んでは手を合わせていく。誰一人として、他人を押しのける人はおらず、日本人の行儀の美しさを感じた。

 一方で、護山さんは20~30分、ポンプを休みなく押し続け、疲れが募った。ある男性が代わってくれたため「やれ助かった」と心でつぶやき、その場を離れた。「わが身かわいさから、逃げるように去った自分が今でも恥ずかしい」と悔やむ。

 「仏教に死の縁無量という言葉があるが、私は不思議な縁に守られて今も生かされとる」。そう思うのは、崇徳中の4年生は数日前まで爆心地近くで建物疎開作業をしていたからだ。原爆投下の直前から工場へ通うようになった。「私らと交代した学徒は被爆死したじゃろう。申し訳なさしかない」と声を落とす。

情景や思い執筆

 護山さんは1957年から同寺住職を務め、2006年に次男の智孝さん(57)に継職。法話を含め、被爆体験はほとんど話してこなかったが、昨年春、33ページの小冊子にまとめた。原爆について知りたがる孫3人に突き動かされ、筆を執った。

 冊子には「孫たちにこんなむごい目に遭ってほしくない」との願いを込め、当時の情景や思いを書いた。「現代も、人間の弱さである我と我の対立から争いが絶えない」と憂い、「力をもって力に対抗する姿勢では、平和は築けない。他人を思う気持ちや、恨みで返そうとしなかった被爆者の慈悲の心から学ぶべきことは多い」と強調する。

 徳正寺の門近くには、小学校時代の同級生ゆかりの鐘がある。別の学校に通っていて被爆死した川崎悟さんの父親が、息子の供養にと1948年に寄付したものだ。

 龍谷大在学中は、命日のお参りで8月6日に川崎さんの家を訪ねた。母親は護山さんにわが子を重ね、「あなたは元気で帰られてよかったですね」と顔をまじまじと見つめた。「その言葉を聞くとつらかった」と回想する。

 「原爆によって多くの人が亡くなったが、私はこうして長生きさせてもろうとる。生きとるんは当たり前のことじゃない」。護山さんは住職を息子に託した今も毎朝、この鐘を10回突き、島しょ部の寺に伝わる法要「常朝事」の開始を告げている。

(2017年7月31日朝刊掲載)

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