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連載・特集

平和記念式典70年70回 <上> 始まり 市民の熱意 開催後押し

 広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式は2017年に開催70回となる。始まりは被爆2年後の1947年なのに、なぜ71回ではないのか。中断があるからだ。米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)の占領期、平和記念式典はどのように起こり、中止となったのか。語られざるヒロシマを掘り起こす。(西本雅実)

 「復興第二年号」と表紙に刷る「市勢要覧」は47年8月6日現在の概況を記す。人口は21万2千余人、戸数は4万9千余である。

 45年8月6日の原爆投下で死傷者は20万人を超えた。同年11月の調査では人口は13万人台であり、原形に近い建物は6千余り。米国発の「70年生物不毛説」も取り沙汰された廃虚からの2年間を、要覧は「驚異的な復興ぶり」と表した。

占領軍に打診

 食糧危機が一息つくと転入者が急増した。とはいえ47年、新制の市立中7校は焼け残った小学校を引き継いだり、間借りしたりして開校するなど復興は緒に就いたばかり。市民生活の苦闘は引き続いていた。

 4月、浜井信三が第二助役から初代公選市長に就く。市が広島商工会議所に設けた広島観光協会の常任委員会でこう提案された。

 「八月六日を中心として、大々的に平和祭をやることなどは、国際的にも相当アピールするのではないか」。NHK広島中央放送局長石島治志の提案であった。浜井はためらいが先だったが、広島商工会議所会頭の中村藤太郎にも求められて呉市に本部を置いた占領軍の中国地方軍政部を共に訪ねる。すると、英連邦軍が派遣した司令官の賛成を得た。

 各町内会や青年団、文化団体などに呼び掛けて意見を聞くと、「市民の平和運動の一環として平和祭も考えるべきで」「追々(おいおい)立派なものにして行けばよい」で一致した。55年に著した「広島市政秘話」で一連の経緯を書き残している。

 市民の熱意と盛り上がりが開催を後押ししたのである。一方で軍政部の意向をまず確かめたように、「平和」を唱えることすら占領政策の枠内に限られた。報道や出版物はGHQの検閲を受け、原爆被害を扱うのはタブーでもあった。

宣言紹介せず

 浜井が会長を務める「広島平和祭協会」は6月20日に発足。副会長の一人、市議会議長の寺田豊は、米通信社UPの知人を通じて「マッカーサー元帥」にメッセージを要請する。GHQ最高司令官は専属通訳カン・タガミを派遣して8月3日、浜井に文書を手交した。昭和天皇との会見に付き添った日系語学兵の2世は、父が現広島県海田町の出身でもあった。

 初の式典は47年8月6日、現平和記念公園北側の慈仙寺鼻に建てられた「平和塔」を会場に開かれる。

 市長の平和宣言に続いて午前8時15分、浜井自らが平和の鐘を鳴らして黙とう。全市に告げるサイレンと花火も打ち上げた。来賓あいさつの後、ハトを放ち、詞を公募した「ひろしま平和の歌」を合唱。順番に違いはあっても、今に続く式典の骨格は第1回平和祭で形づくられた。

 しかし、国内外の関心を引きつけたのは被爆地からの訴えではなかった。

 「諸君の苦悩は、凡(すべ)ての人々に対する警告として役立つ」。マッカーサーが広島にメッセージを寄せたことを東京各紙もニューヨーク・タイムズも取り上げた。全国の映画館で上映される日本ニュースは「平和の鐘 惨禍の地にひびく」(8月12日公開)として平和祭を紹介した。「元帥」メッセージの代読場面はあっても平和宣言は収めていない。

(2017年8月2日朝刊掲載)

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