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連載・特集

平和記念式典70年70回 <下> 1950年の中止 朝鮮戦争で占領軍圧力

 広島・長崎両市長は1950年6月13日に東京・羽田を旅立つ。米国人牧師が提唱したMRA(道徳再武装)のスイス世界大会に招かれ、政財界や労働界のリーダーらと日本代表団として欧米を回る。とりわけ両市長の浜井信三と大橋博の発言は先々で注目された。

 朝鮮戦争が起こったからだ。北朝鮮は6月25日韓国に侵攻し、米大統領トルーマンは27日に出撃を命令。7月8日には連合国軍総司令部(GHQ)を率いるマッカーサーが国連軍最高司令官に。ソ連との東西冷戦下、原爆使用が公言され緊張が一気に高まった。

 一行は7月23日、英ロンドンから米国に着く。「原爆は使われるべきではないと願っており、自由世界を担う大統領の考えに全幅の信頼を置いている」。ニューヨーク・タイムズ24日付は、浜井と大橋2人の写真を載せ、日本代表団の談話として報じている。

電報届く前に

 浜井は現地時間の8月2日、シカゴから助役の奥田達郎宛てに電報を打つ。「時局緊迫の折から平和祭の成功を祈る」。しかし、第4回となる平和祭は、電報が届く直前に中止が決まっていた。「昭和二十五年広島平和協会一件」を市公文書館が保存している。

 広島平和協会は2日、常任委員会を市長室で開く。占領軍の中国地方民事部(49年に軍政部を名称変更)での交渉経過報告などから、「新情勢に處(しょ)して之(こ)の際式典を取止める」と決めていたが、どのような報告がなされたのかは記されていない。

 中止を発表した助役の新聞談話も通り一遍にとどまる。「式典は都合により取止めることになった。当日は反省と祈りの日として敬けんな一日を送っていただきたい」(中国新聞50年8月3日付)。式典の中止は今なら大事件だ。何が話し合われたのか。

 出席者に名前が残る市長室主任、藤本千万太は会議の内幕を生前にこう明かしている。「占領軍から文句がついたと公には言えないでしょ。彼らがそうしろと言えば従うしかなかった」(同95年1月29日付)

供養塔へ人波

 広島市警本部は5日、「市民各位に訴う!」ビラを配布。市平和擁護委員会などの集会や集団行進は「反占領軍的又(また)は反日本的」と断じた。「マッカーサー書簡」により、共産党とその同調者とされた人たちへのレッドパージ、有無を言わせぬ職場からの追放がこの日広島でも始まった。

 50年8月6日は、午後8時15分のサイレンで市民はそれぞれの場で黙とう。それでも慈仙寺鼻(現平和記念公園)の供養塔へは焼香の人波が続いた。音楽会など協賛行事も中止され、男女4人が「不穏」ビラを福屋百貨店などからまいたとして逮捕された。

 浜井は、ロサンゼルスのMRAセンターで地元市長も出席した8月6日夜の歓迎会の席上、CBSラジオの全米向け放送に臨む。東京から同行した日系2世が通訳した。演説内容は現地の邦字紙「羅府新報」に詳しく載った。骨格を引く。

 「それは悪夢のような現実でした。だが広島市民は今何人(なんびと)も怨(うら)んではおりません。ただ我々(われわれ)の求めたいものは、総(すべ)ての人が広島で何が起こった、それが如何(いか)ようであったかを十分に考え、再び起こらないように努力して頂(いただ)きたい」。そして「戦争そのものを防止する以外にはない」と訴え、「そうした努力を広島から始めなければならないと考えております」と誓った。

 平和記念式典は占領下の苦難から紆余(うよ)曲折を経て、今日が形作られた。単なる平和行事ではない。先人たちの願いが積み重なった市民の平和運動である。(西本雅実)

(2017年8月4日朝刊掲載)

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