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連載・特集

[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <1> 「原爆を許すまじ」作詞者 浅田石二さん

歌声に乗って 反核運動に伴走 被爆地と連帯

 原爆や戦争にあらがう詩には、峠三吉、栗原貞子らの代表的な原爆詩のほかにも、曲に乗って広く人々の口に上った詩、家族の死にひそやかに向き合った詩など、さまざまな形がある。被爆・戦後72年の歳月のうちに生まれ、平和への願いと意志を込めた多様な「響き」に耳を傾ける。

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 この「うた」が生まれて、63年がたった。今も、日本被団協の総会など被爆者の集いで高らかに響き渡る。浅田石二さん作詞、故木下航二さん作曲「原爆を許すまじ」。原水爆禁止運動と伴走した歌でもある。

 「今も歌われているのは、むしろ残念。核兵器廃絶が実現していない証しだから」。作詞者は、禁止条約にも加わろうとしない被爆国日本の政府を「恥ずかしい」と非難する。

 ふるさとの街やかれ/身よりの骨うめし焼土(やけつち)に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度(みたび)許すまじ原爆を/われらの街に(1番の歌詞)

 叙情的な旋律と分かち難いこの詩が生まれたのは、広島でも長崎でもなく、大小の工場がひしめく東京の下町だった。「東京に住んでいても、被爆地はわがふるさと、殺されたのはわが身寄り。仲間と議論の末、そう思い定めたんです」。作詞当時、浅田さんは大田区下丸子などを拠点とした労働者のサークル「南部文化集団」に所属する若き詩人だった。

 山梨県の高校を卒業し、上京。詩人として活動し始めたのは1950年代初頭だ。「定職にも就かず、何を食べていたか記憶がない」。仲間と詩の論議をすることで、腹の代わりに心を満たす日々だった。

 広島では、峠や栗原らがやはりサークルをつくり、機関紙「われらの詩(うた)」を舞台に創作を重ねていた。朝鮮戦争が始まり、言論への締め付けが強まった時代だが、「原爆について、峠さんらの仕事を通じて少しずつ知るようになっていた」。各地のサークルは強い連帯感情で結ばれてもいた。

 54年3月、太平洋ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件を契機に、原水禁運動が野火のように広がる。これに前後して、東京で創作歌の運動をリードしていたのが、作曲者の木下さんだった。「今、求められているのは原爆反対の歌です」。木下さんのそんな呼び掛けに応え、書いたのが「原爆を許すまじ」である。

 浅田さんがこの歌を初めて耳にするのは、同年8月に広島であった「国鉄のうたごえ」祭典に参加し、東京に帰る夜行列車の中だったという。「列車の中で、覚えのある詩句が歌になって聞こえてきた」

 祭典の参加者が、できたての歌を車中で歌い交わしていたのだ。驚いて「それは僕が書いた詩だ」と言うと、感激した参加者に胴上げされたという。以来、この歌が何度歌われたか―。膨大すぎて想像もつかない。

 昨年10月、浅田さんらの活動について詳述した本「下丸子文化集団とその時代」(みすず書房)が刊行された。49歳で早世した研究者、道場親信さんの遺著。サークル文化運動を通じて「工場街に詩があった」50年代の息吹を、今に伝える一冊だ。

 仲間の一人、呉隆(くれ・たかし)さんの詩が同書に引用されている。

 おれたちはものを言おう……/おれたちはものを書こう……//まともな人は/まともにしかものが言えないし/ひがんだものは/ひがんだようにしかものが言えない(中略)これは素晴しいことではないか!/おれたちはものを言おう……(「詩集下丸子」第2集から)

 翻って現在。6月、「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が成立した。50年代とは違った形で、表現の自由が萎縮しかねない時代。「ものを言う」詩の可能性について浅田さんに問うてみた。

 「抵抗すべきものを見失っている時代に、詩は生まれない。最近、いいと思った詩は、沖縄慰霊の日(6月23日)に高校生が読み上げた詩くらいかな。軍事基地に囲まれた地で、子どもだからこそ書けた詩だ」

 厳しいエールに違いない。(道面雅量)

あさだ・いしじ
 1932年山梨県生まれ。高校の後輩だった江島寛らがつくった「下丸子文化集団」や後身の「南部文化集団」に参加。広告代理店、出版社勤務を経て独立し、今も編集者として活動している。東京都在住。

(2017年8月4日朝刊掲載)

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