×

連載・特集

8・6式典 都道府県遺族代表の思い 受け継いだ記憶 次世代へ

 米国の原爆投下から72年。巡り来る原爆の日に、広島市が平和記念公園(中区)で営む原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)にことしは36都道府県から遺族代表各1人が参列する。過去最少で、最高齢は88歳、最年少は44歳。亡き人から受け継いだ「あの日」の記憶や、核兵器廃絶への願いを胸に追悼の祈りに加わる。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

土谷 節子(64)=北海道

 母佐藤弘恵、15年8月5日、88歳、呼吸不全・心不全
 広島貯金支局に勤めていた母は、爆心地から1・6㌔の職場で被爆した。体中にガラスの破片が刺さり、白地のブラウスが血で赤く染まったが、逃げるのに必死で気付かなかったという。「地獄絵のような状況だった」といつも私や兄弟に語ってくれていた。

藤田 和矩(71)=青森

 母俊子、46年9月3日、21歳、心不全
 白島九軒町の自宅で被爆した時、母は私を身ごもっていた。出産半年後に、「自分の子どもに小遣いを渡せずに死ぬのが悔しい」と言い残し、亡くなった。2枚の写真が唯一の形見で、肌身離さず持っている。今年も、母の好きだった菊の花を被爆場所に添える。

木村 緋紗子(80)=宮城

 父山縣貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死
 父は医者だった。往診に行く途中の本通り付近で被爆。母に「無念でならぬ。子らを頼む」と言い残し、亡くなった。自分も大須賀町で被爆した。被爆した祖父を看病中、臭いやうじ虫が強烈だったため「早くあの世に行ってほしい」と思ったのを後悔している。

夏井 智泉(44)=秋田

 母佐藤里枝、12年4月23日、70歳、大腸がん
 母は家族4人と疎開先の祇園町に向かう途中、楠木町で被爆した。直前に横川橋で偶然会った祖父のその後の足取りは不明だ。母は62年、秋田に転居。毎年8月6日、秋田竿燈(かんとう)まつりに沸く中、被爆体験を語って聞かせた。息子2人と参列し横川橋を訪れたい。

佐藤 友子(68)=山形

 父美津栄、17年2月18日、101歳、肺炎
 父は陸軍鉄道隊で食料を運ぶ機関車の運転手だった。あの日の前日が週1回、広島に泊まる日で、中広町で被爆。がれきの下敷きとなり骨盤の一部がつぶれた。原爆の話はあまりしなかったが、ひ孫の質問を機に重い口を開いた。広島で父の記憶をたどろうと思う。

北村 正人(55)=福島

 母幸子、16年5月13日、85歳、心不全
 当時、広島の中学に通っていたという母は被爆体験を一度も話さなかった。福島第1原発事故では再び核の恐怖にさらされた。私の仕事のため家族7人でいわき市に残ったが、周りはみんな避難していてこの世の終わりの様だった。反核の思いを込めて参列する。

茂木 貞夫(83)=茨城

 父嘉勝、68年12月17日、80歳、心不全
 刑務官の父は吉島町の刑務所内で被爆。ガラス片が刺さった頭部は包帯でぐるぐる巻きにされていた。中島国民学校6年だった私も顔や腕に大やけどをし、友人を失った。式典前には私が被爆した住吉橋付近を訪ね、若い世代に体験を語るつもりだ。

佐藤 政敏(66)=群馬

 父裟一、17年1月22日、92歳、肺炎
 松江市の憲兵隊にいた父は、救助活動のため投下翌日に広島市へ入り、被爆した。60代ごろから相次いで三つのがんを患い、体調を崩していた。初の広島訪問で、遺影を持っていく。式典後は市内を歩き、原爆について多くを語らなかった父の足跡をたどりたい。

小峯 謙司(63)=埼玉

 父安太郎、12年4月21日、87歳、肺炎
 父は大工をしていて陸軍工兵として徴兵され、宇品で被爆した。口の中の皮がむけ、3年近く満足に食事ができなかった。大工の仕事も十分にはできず、終戦直後の復興に関われなかったと悔やんでいた。熱風を感じて飛び込んだという宇品の海を訪ねてみたい。

宗實 直美(51)=千葉

 父熊谷直朗、13年11月11日、76歳、脳出血
 父は国民学校1年の時に、爆心地から1・2㌔の鉄砲町で登校中に被爆した。疎開先から帰省していた父の姉が原爆で亡くなったという。骨も見つかっておらず、よく「どこかで生きていてほしい」と語っていた。「家族を大切にしなさい」という言葉が心に残る。

熊田 育郎(72)=東京

 母艶子、45年8月6日、26歳、被爆死
 母は当時、建物疎開で移った天満町の家に曽祖父と叔母といた。爆風で倒れた家の下敷きとなり、母だけが抜け出せなかった。火の手が迫る中、母は「逃げて」と言って2人を逃がした。母の記憶はないが、私に「高い高い」をしてあやしてくれていたと聞く。

西 純子(74)=神奈川

 兄野村俊雄、45年8月18日、13歳、被爆死
 山陽中2年だった兄は建物疎開作業中に被爆した。背面にやけどを負い、欲しがる水を飲ませた母に「皆を守るよ」と言い残して亡くなった。実際に私が困った時、精神的な支えとなったのは兄だった。式典では、見守ってくれた感謝を伝えたい。

原田 佳津広(68)=富山

 父広、16年10月19日、89歳、脳梗塞
 父が被爆者だと知ったのは葬儀の日。参列者に教わった。当時は特攻隊の一員として江田島市にいて、救護のために広島市へ入ったらしい。生前、そんな話は一切しなかったので、どう受け止めればいいか分からない。まず、原爆資料館を訪ねてみようと思う。

西本 多美子(76)=石川

 姉古賀千枝子、16年7月30日、85歳、脳梗塞
 姉は学徒動員された東雲町の郵便局の建物内で被爆した。顔にガラスが刺さった以外に大きなけがはなく、川の土手を必死で歩いて今の大州で家族と再会した。私も4歳の時に段原の自宅で被爆した。生き残った者の使命として、命の続く限り核廃絶を訴える。

日向 偉夫(70)=山梨

 父退助、03年5月10日、85歳、間質性肺炎
 陸軍の船舶通信連隊にいた父は比治山の麓の兵舎内で被爆した。外で見た光景は語りたがらず、自分が手のやけどだけで済んだのを「奇跡」と言った。母も大手町の自宅にいたが、建物に守られて助かった。両親が被爆した広島で72年前の出来事を感じたい。

村岡 正一(69)=長野

 父与一、16年11月6日、99歳、心不全
 再召集で広島に行った父は、駐屯先の国民学校の校舎内にいて、熱線の直撃を免れた。翌日から遺体収容に当たったと聞く。家族には多くを語らなかったが、地元中学では90代半ばまで証言を続けた。式典では同行の娘家族とともに、父に代わり慰霊したい。

川本 司郎(80)=静岡

 父貫一、45年8月19日、51歳、被爆死
 市役所近くで建物疎開の作業中だった父は全身やけどし、古里の三次市に戻り亡くなった。私は母の実家の長野県に移ったが、食糧難がつらかった。母が私と弟を連れてつり橋へ行った時があり、身投げするつもりだったのだろう。原爆は悲劇しか生まない。

水野 克巳(77)=愛知

 母豊美、01年12月13日、90歳、老衰
 黒い雨が降る中、母は私と長女を連れて牛田町の自宅から父の上司方まで約2㌔を歩いた。血だらけの人が道に横たわり、母は手記に核兵器は許せないとつづった。私も多発性骨髄腫を患い、1年前に原爆症の認定を受けた。恐ろしい核兵器の廃絶を願いたい。

鈴木 理恵子(54)=三重

 父井上公治、96年7月11日、56歳、白血病
 父は疎開先の水内村から5日後に中島本町の自宅へ戻った。自宅は跡形もなくカフェを営んだ祖父母の遺骨は見つかっていない。年の離れた父の兄がバラックを建て、親代わりとなった。苦労を語らなかった父の分まで、被爆2世として平和の大切さを訴える。

西田 長太郎(65)=滋賀

 父昌一、14年1月6日、87歳、心筋梗塞
 軍の通信隊に所属していた父は、救護のため呉市から広島市に入り被爆した。家で被爆体験を全く語らなかったが、戦友会に入り、年数回は犠牲者のために祈っていたようだ。式典の前に初めて原爆資料館を訪れる。父のあの日に思いを巡らせ、冥福を祈りたい。

米倉 剛司(52)=京都

 父慧司、15年12月5日、84歳、誤嚥性肺炎
 爆心地から約1・2㌔の軍事工場で砲弾の部品を作っていた父は頭と足に大けがを負った。多くの同僚が亡くなったという。京都原水爆被災者懇談会に所属し、体験を地元の子どもたちに積極的に話していた。式典には初めて参加する。父の思いを継ぎ平和を祈る。

大津 巧(73)=大阪

 母宗藤道子、05年4月16日、96歳、老衰
 原爆投下から4日後、母は疎開先の安芸高田市から2人の兄と私を連れて広島市に入った。あちこちで上がる煙を避けながら、熱線で地表が溶けた道を歩いて親戚を探したと聞く。初めて参列する式典。被爆直後の街の姿を想像し、平和への思いを強くしたい。

下桶 敏之(86)=兵庫

 妻佳子、10年3月19日、82歳、肺がん
 今の南区にあった軍事工場で建物の下敷きとなり、大けがを負った妻。手術や入院を繰り返し、苦しんだ。私も被爆者。毎年8月、あの日を思い出し、体験を語り合った。生き残ったのは奇跡、と。子どもたちには私たちのような体験をしてほしくないと切に願う。

宮辺 鈴子(81)=奈良

 夫孝之、16年9月19日、89歳、心不全
 夫は原爆投下の翌日、神奈川県の無線電信の講習所から実家のある熊本県へ向かう途中、鉄道が寸断された広島を歩いた。黒焦げの遺体が転がり、皮のめくれた人がさまよう光景に「生き地獄」と表情を曇らせた。結婚後も夢に出て夜中に起きる時もあった。

植田 康数(64)=和歌山

 父正夫、14年5月8日、93歳、前立腺がん
 海軍の衛生兵だった父は、大竹町で被爆者の救護に当たった。戦争体験は話してくれたが、原爆の記憶だけは沈黙を貫いた。その姿に核の悲惨さを印象付けられた。初めて踏む広島の地。父や犠牲者の思いをしっかり胸に刻んで原爆慰霊碑に献花したい。

三輪 郁夫(69)=島根

 父正、15年12月22日、101歳、肺炎
 父は基町にあった赤穂師団司令部で被爆し、兵舎の下敷きになった。「痛い、助けてくれ」と叫ぶ戦友。迫る火の手に仕方なく無事を祈りながらその場を後にしたと、23年前の手記に残した。私の誕生日に死んだ父。命のバトンを受け継ぎ、平和を訴え続けたい。

山本 秀樹(63)=岡山

 父淳、17年1月7日、93歳、腎不全
 憲兵だった父は原爆投下から約1週間後に広島市に入り警備に当たった。一面焼け野原で、食料は手に入らない。生活に不安を訴えるお年寄りたちの話し相手になったと語っていた。父が原爆死没者名簿に載る年。戦争のない世界をしっかりと願いたい。

斉藤 加代子(71)=広島

 母升田シズエ、03年4月14日、90歳、老衰
 可部町で暮らした母。原爆投下の瞬間、周囲が明るくなり「敵だ」と近所の人が竹やりを持って走って行ったという。母は翌日から小学校で被爆者を介抱したが、その体験はほとんど聞かなかった。二度と戦争をしてはいけないとの思いを胸に参列する。

徳本 長史(58)=山口

 父俊雄、16年12月3日、90歳、慢性心不全
 陸軍の船舶工兵隊に所属した父。宇品で訓練中に原爆投下の知らせを聞き市中心部に入った。道路をふさぐおびただしい数の遺体を運び、がれきを片付けたが体調を崩して半年ほど入院。「命があっただけでも」とよく話した。初参加の式典で父の冥福を祈りたい。

栗田 猛(46)=香川

 祖母政子、16年3月28日、93歳、肺炎
 祖母は南観音町の自宅で被爆し、10日後に私の父を生んだ。数年間は、体のだるさなどの体調不良で入退院を繰り返したらしい。物静かで原爆を語った記憶はないが、苦労して父を育ててくれたからこそ私がいる。初参加の式で核兵器のない世界を祈りたい。

開 明美(55)=愛媛

 父北野洋、16年5月22日、85歳、肺がん
 坂村(現坂町)に住んでいた父は原爆のきのこ雲を見た。たくさんの遺体を運び、友人を亡くした。惨状に心を痛め続けたのだろう。原爆の日は、祖父が町内に建てた供養塔に必ず参っていた。今年は私が行く。式典では父が大好きだったコーラを手向けたい。

杉村 真一(56)=高知

 父真実、13年11月6日、82歳、肺炎
 広島陸軍幼年学校49期生で14歳だった父は7日に疎開先から戻り入市被爆した。生前、被爆について聞いたことはなく、社会人になった頃、49期生の文集を手渡されただけだった。被爆2世と知り初の広島訪問。同校跡地の広島城北側に残る門柱を見に行きたい。

長谷川 充枝(78)=福岡

 義母千鶴子、14年11月18日、105歳、大腸がん
 牛田の自宅にいた義母は浴室で洗濯中に被爆。屋根が落ちたが、無事だった。式典後、中学1年で建物疎開作業中に被爆した夫の母校である県立広島工業高の慰霊式にも参列する。私とともに入市被爆した姉と、姉宅近くの己斐小での慰霊行事にも行きたい。

平生 一喜(62)=熊本

 父勉、17年2月19日、92歳、老衰
 陸軍にいた父は爆心地近くで被爆。戦友が亡くなる中で生き残ったことに長年苦しみ、広島にずっと行けなかった。80歳代後半でやっと平和記念公園を訪問。父は下を向き号泣していた。証言活動をしていた父の遺志を胸に、兄姉3人と式典に参列し平和を祈る。

万田 泰次(80)=大分

 父秀文、45年8月6日、46歳、被爆死
 両親は仕事で千田町の自宅を出て被爆死したとされる。私は、使いに出た姉を弟2人と追い、爆心地から約800㍍で被爆した。がれきから弟を救い、やけどで顔が分からなくなった姉にも再会したがまもなく3人とも死んだ。広島で家族が生きた証しを探したい。

新垣 和子(88)=沖縄

 母真栄田マカメ、75年8月3日、82歳、肺がん
 あの日、母と私は入院中の兄を見舞いに現在の倉敷市から広島市を訪れていた。爆心地から1・5㌔の広島赤十字病院前の旅館で被爆。母と逃げる時に見た黒い空や、肉がむき出しになった人の姿を今も夢に見る。広島を避けてきたが、初参列し核兵器廃絶を祈る。

(2017年8月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ