×

連載・特集

[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <2> 「ヒロシマを伝える」著者 永田浩三さん

筆に込めた反戦 占領下での志 次世代に勇気

 四国五郎(1924~2014年)は、広島市を拠点に反戦平和の願いを筆に込めた画家として知られる。死後、回顧展が各地で開かれる中で「再発見」されたのが、その詩人としての側面だ。今春には、40編余りの詩を収めた70年刊の詩画集「母子像」が復刻された。

 永田浩三さんが昨年7月に著した「ヒロシマを伝える」(WAVE出版)は、「詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち」を副題とする、四国の評伝だ。その詩作について「技巧を凝らすより、耳で聴いても分かりやすいシンプルな詩を目指した」とみる。

 画業でも、平和のメッセージを分かりやすく伝えることに徹し、自己表現が後回しになるのもいとわなかった四国。詩作でも、その姿勢を貫いた。

 日本がまだ連合国軍占領下の51年、京都市の百貨店で開かれた原爆展では、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」などと共に、四国の詩「心に喰い込め」がパネルで紹介された。

 この黒い土の上で/くらい原子雲の下で/死んで行った人々よ/弟よ/何をかんがえる//―この黒い土がいつまでも黒いように/ひとびとの戦争を憎む気持をかえさせまい/いつまでもかえさせまい―

 広島で被爆死した弟に言及した詩は、四国の姿勢がタイトルにもにじむ。「芸術は書斎や画廊の中だけでなく、町中の、行き交う人々と接する所に存在すると考えた人だった」。四国たちは占領下、危険を冒してでもそうした芸術を実践した。

 永田さんが四国の生涯を追い始めたのは2014年。広島市の「清掃員画家」ガタロさんの絵画展を東京で企画した際、ガタロさんがしきりに「四国先生」と言うのを聞いた。権威主義とは縁遠いガタロさんの、四国への深い敬意に興味が湧いた。

 資料を調べるうち、「占領期の広島の若い文学者や画家たちが格闘した姿に心を揺さぶられた」という。「その中心に四国さんがいた」

 44年に徴兵され、戦地に赴いた四国は原爆を経験していない。絵と言葉で、原爆や戦争の体験者と非体験者の懸け橋となった原動力は何だったのか。永田さんは、「母子像」に収まる詩「弟への鎮魂歌」の痛切な響きに、その答えを探す。

 きみの逃れたみちを逆に/またひろしまの都心へと人々が行進する/もちろんきみも一緒に歩いてゆく/あらゆるスローガンをなみうたせて/血の沸騰したぬくもりが/靴底からはいあがる広島の舗道を/敷きつめられた二十万の背すじをたどり/ひとつの流れになって結集するとき//弟よ/笑みをみせてこちらに合図をしてくれ

 「弟よ/きみの命日が来る」で始まるこの詩は、「弟の死を無駄にしないため、広島の悲劇が二度と起きないように歩んでいくという宣言だと思う」。

 「母子像」の最初に掲載された詩も、自らを追い込むかのように人生の使命を定めている。

 おまえは/見なかったとはいわさぬ/消え去ったふるさとを/かしいで骨をさらしたドームを//五郎よ/おまえは/きかなかったとはいわさぬ/根こそぎ消え去った人々の名を/弟と恋人の断末を/老いた母の嗚咽を(「五郎よ」から)

 戦争の記憶が生々しかった四国の世代から、時代は移り変わった。しかし、彼らが占領下にあっても振るった筆の志を思うとき、「私たちが安易に政権の意向を忖度(そんたく)し、表現を自粛するわけにはいかない」。残された詩が勇気をくれる。(鈴木大介)

ながた・こうぞう
 1954年大阪府生まれ。NHKでディレクターやプロデューサーとして、主にドキュメンタリーの制作に携わる。2009年に退職後、武蔵大教授。東京都在住。

(2017年8月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ