×

社説・コラム

磯野恭子さんを悼む 事実で迫った戦争の惨禍

 山口放送(周南市)のディレクター、民放初の女性役員、岩国市の教育長、終戦前後の混乱で中国に残された女性の帰国を支援した中国残留婦人交流の会の会長…。数多くの顔を持ち、その全てに確かな信念を持って取り組んだ磯野恭子さんが亡くなった。

 2010年秋。聞き書き連載「生きて」の取材で、岩国市の自宅へ訪問を重ねた。半生をたどる質問をさまざまにぶつけた。当時既に76歳だったが、幼少期の思い出でさえ前日の出来事のように語った。人生のあらゆる局面を、自らの意思に沿って動いたと伝わる明快さ。語り口は優しく、かつ自信に満ちていた。

 ディレクターとして、戦争をテーマにしたテレビドキュメンタリーの秀作の数々を残した。原爆小頭症の女性と両親に迫った「聞こえるよ母さんの声が―原爆の子・百合子」で文化庁の芸術祭大賞や、ベルリン未来賞を受賞。海の特攻兵器「回天」搭乗員の生涯を伝えた「死者たちの遺言―回天に散った学徒兵の軌跡」は芸術祭優秀賞など。中国残留婦人を取り上げた2作も芸術祭芸術作品賞を射止めた。

 作風を支えたのは、生まれ育った江田島市での体験だ。小学6年時の原爆投下と終戦。磯野さんの言葉を借りれば「海軍兵学校の近くで育ち、神風が吹くと信じた軍国少女」が「人がぼろきれのように死んでいく現実」に直面し、「自分で確かめたこと以外は信じない」と誓った72年前の夏が原点だった。

 私の取材には計20時間以上、お付き合いいただいた。何度も自宅へ押し掛けては長居する42歳も年下の記者に、嫌な顔一つ見せなかった。それは、ドキュメンタリーの制作で作り手の思いをごり押しせず、取材相手の本音の吐露を待ち続ける姿勢と共通していた、と今は思う。

 客観的な事実の力を信じ、そこに迫る努力を惜しまなかった磯野さん。広がる「ポスト真実」とは対極の存在をメディア界が失ったことが、あまりに惜しい。「スクープ性がある情報を誰もやっていない描き方で発信して」。何度も繰り返していた言葉が耳によみがえる。(山瀬隆弘)

    ◇

 磯野恭子さんは2日死去、83歳。

(2017年8月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ