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連載・特集

『生きて』 医師・広島大名誉教授 鎌田七男さん(1937年~) <5> 原医研入局

ヨット部先輩に誘われ

  広島大が広島医科大(県立)の移管から1955年に設けた医学進学課程(定員40人)の1期生となった
 合格発表は呉市阿賀町の医学部でありました。亡きおやじの願い、おふくろや、送り出してくれた兄貴たちの期待に応えられたかと思うと正直、涙があふれましたね。

 2年間の教養課程は付属高がある広島市皆実町(南区翠)でした。授業料は年に6千円と安かったけれど、月々の工面は大変。苦しくなって、構内の「薫風寮」に入居し朝昼晩の3食を賄ったこともあります。

 医学部と付属病院は57年に霞町(南区霞)の県庁跡への移転を終え、4年間の専門課程は僕らからは霞キャンパスです。その頃の「金銭出納帳」を残しています。月の収入は兄3人の仕送りで5千円、家庭教師で2千円、福岡県田川市や育英会(現日本学生支援機構)の奨学金が5千円。支出は4畳半の下宿代に1400円、食費が約3300円、風呂代が1回15円など。専門書の購入に3300円を充てていますね。

 講義は同期の9人が落第するほど厳しかった。勉強はしましたね。同時に医学部のヨット部に入り、練習にも打ち込んだ。「宮島一周ヨットレース」が初めて開かれた60年、2枚帆のスナイプ級で優勝したんですよ。このヨット部のつながりが僕の原医研入局とつながるんです。

  57年の原爆医療法制定を機に被爆の総合研究を地元自治体も求め、広島大は61年に原爆放射能医学研究所を設置。障害基礎、内科、病理学、疫学・社会医学の4部門で始まる
 卒業後は、外科医を目指して福岡の九州厚生年金病院で1年間のインターンに臨みました。たわしで手を磨くとかぶれる。今のように手袋はなく接触性皮膚炎にかかったんですね。悶々(もんもん)としていたら、原医研に入ったヨット部の先輩が「来いよ」と年明けに誘ってくれた。「被爆内科」が開設される、とも教えてくれた。米国の援助で鉄筋一部5階建ての病棟(148床)が前年の61年10月、駐日米大使ライシャワー夫妻も式典に出席して完成していました。

 被爆者の白血病発症の解明に取り組む朝長正允教授を同期と一緒に訪ね、入局しました。「被爆内科」が病棟西1階で始まるのは62年4月1日です。

(2017年8月1日朝刊掲載)

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