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連載・特集

[Peaceあすへのバトン] アーティスト 恩田敏夫さん

ドーム制作 前向く力に

 原爆ドームは、自分の「原点」です。脳性まひで言語と聴覚に障害があり、人と話すことが苦手でしたが、模型や絵の制作を続ける中で多くの人と出会い、そして支えてもらって、人前でも話せる自信が付いたからです。作品を通して、原爆の怖さを伝えていきたいと思っています。

 自分の住む埼玉県から初めて被爆地を訪れたのは1995年、高校2年の修学旅行の時でした。原爆ドームを一目見て、衝撃を受けました。たった一つの爆弾でこれほどの破壊力があるのか―。周囲の音が聞こえなくなり、見入ると吸い込まれそうでした。

 地元に戻って所属する天文地学部の顧問の先生に模型を作りたいと相談しました。ドームから人々の叫びが聞こえたように感じたからです。1人で始めましたが、すぐに問題にぶち当たります。窓枠の柱の太さは、壁の素材は…。後輩の手助けを受けながらも細部に疑問がどんどん湧き、作っては壊しの連続です。

 NHK広島放送局アナウンサーだった出山知樹さんが訪ねて来てくれたのはそんな時です。原爆ドームの模型を作る高校生がいると聞き、ラジオの取材で来てくれたのです。マイクを向けられ最初は戸惑いました。しかし話さないと取材は終わりません。考えたことを文章にして話すきっかけになったと思います。

 正確に作るため、被爆者の故吉川生美さんにも会わせてもらいました。「原爆1号」と呼ばれ、ドームの近くで土産物店を開いた清さんの妻です。模型作りをとても喜んでくれました。「信念を持って作ってほしい」という言葉は今も胸に刻んでいます。

 その時、鉛筆でスケッチした原爆ドームの絵を吉川さんに見せると「絵はがきにしては」とアドバイスをもらいました。一つ目の模型を完成させた後、2000年からは毎年ほぼ1枚ずつのペースで、四季に移ろう原爆ドームを描き、上野の森美術館の「日本の自然を描く展」に出品しています。絵はがきにして原爆資料館で販売しています。

 個人的に映画を作る出山さんが制作に携わった作品も、手伝ってます。吉川さん夫妻を描いた09年の「運命の背中」では被爆者のやけどを表現する美術などを、被爆米兵と少女の交流をアニメ化した16年の「あの夏のライオン」では原画が動く加工を担当。工夫して乗り切りました。

 今ある模型は三つ目です。残された写真を参考に15年、被爆直後の様子をイメージして完成させました。「煙の臭いがする」と言われたこともあり、会心の出来です。近所では原爆ドームの存在を知らない若者も増えています。作品を見てもらい、その存在を知ってほしいです。(文・山本祐司、写真・井上貴博)

おんだ・としお
 埼玉県秩父市出身。県立小鹿野高時代に原爆ドームの模型作りを始め、1個目は3年かけて完成。海外の高校生とも交流したエピソードは高校の英語教科書で取り上げられた。毎年8月6日は広島を訪れ原爆ドームと向き合う。趣味は鉄道の撮影。秩父市在住。

(2017年9月12日朝刊掲載)

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