連載・特集

地域と歩む 新聞週間に寄せて 原点

 地域の出来事を丹念に取材し、紙面を読者に届ける。テレビやインターネットなど新しいメディアが次々と登場しても、新聞を中心に「地域と歩む」という中国新聞の報道姿勢は今も昔も変わらない。今年は創刊125周年。15~21日の新聞週間を前に、報道の現場から新聞が家庭に届くまでの、新聞づくりの今を伝える。

  
原爆報道 変わらぬ使命

 被爆者の浅野温生(よしお)さん(85)=広島市南区=は4日、平和学習で原爆資料館(中区)を訪れた愛知県の高校生約100人に体験を証言し、1枚の新聞紙面を掲げた。「活字でも原爆を伝えてきました」。1965年7月8日付中国新聞朝刊。中国新聞報道部の記者として、「ヒロシマ二十年」報道の被爆者ルポ、「世界にこの声を」の連載初回を書いた。

 「大根でも切るように、五体を刻んで死ぬんだろうか」。記事には、18歳で被爆し、ケロイドなどの手術を43回重ねた女性の不安の声を記していた。別の回で取り上げた、原爆のせいで3歳で失明した女性の取材話も高校生へ語った。

 浅野さんは72年前の「あの日」、広島二中(現観音高)2年だった。原爆投下後、壊滅した市中心部に入った。本川河岸に建物疎開作業で集まった1年生は原爆で全滅。その地に立つ慰霊碑は、生徒346人の名前を刻む。54年に入ることになる中国新聞社は上流川町(現中区胡町)の本社ビルが全焼。社員の3分の1に当たる114人が死去した。

 「犠牲となった二中の後輩たちはずっと語れない。亡くなった多くの市民に代わって訴えなければ」。原爆報道と証言活動に通底する思いをこう語る。

 米ソが核開発を競う中、64年8月6日付の中国新聞社説は「原爆の威力でなく原爆の悲惨さが徹底的に調査され、世界に知らされなければならぬ」と訴えた。65年の夏の企画が、浅野さんたちが担った「ヒロシマ二十年」。人間的悲惨に迫り、原爆を伝える。今に続く報道の礎となった。

 それから半世紀余り。被爆者の平均年齢は80歳を超えた。しかし今もって、きのこ雲の下で起きた事実の全容は分からない。

 被爆70年の企画「伝えるヒロシマ」の取材では、二中1年で被爆した元学徒の証言から、慰霊碑に名前のない犠牲者の存在が浮かんだ。地域住民の協力も得て遺族を捜しだし、節目の年にようやく碑に名が刻まれた。原爆で一家全滅した家族もいる。犠牲の記録の空白はまだあるはずだ。その一人一人の生と死に私たちは迫り切れているのか。

 浅野さんが証言活動を本格的に始めたのは2年前。記憶の継承に危機感を募らせたからだ。「広島で取材する記者の誰もが死者の無念を忘れず、原爆を報じる使命があると、いま一度意識してほしい」

 今年7月、122カ国・地域の賛成で核兵器禁止条約が制定された。今月6日には、条約制定への貢献が評価され、非政府組織の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))のノーベル平和賞受賞が発表された。だが、核保有国はおろか日本政府も条約に背を向ける。米朝が核の「威力」で脅し合う国際情勢に被爆者はやむにやまれぬ訴えを強いられている。世界にこの声を―。ヒロシマの記者の変わらぬ役割をかみしめる。(水川恭輔)

(2017年10月11日朝刊掲載)
ページTOP