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連載・特集

[Peaceあすへのバトン] 朗読ボランティア 道上有香さん

福島離れ被爆地重ねる

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の朗読ボランティアをしています。福島第1原発事故の後、暮らしていた福島県いわき市を離れ、2012年から東広島市に住んでいます。そこで被爆者の体験を聞き、つらい記憶を話す姿を見て「人ごとでない」と感じました。自分も体験を伝えなきゃ、と思ったからです。

 東日本大震災は、いわき市内の勤務先で経験しました。当時妊娠3カ月。すごく長い揺れに感じましたが、「この子に絶対会いたい」と机の下で耐えました。自宅に戻り、水道、電気の止まる中、ついに原発事故が起きました。

 遠くへ離れよう。夫と決断し、福島空港でやっとチケットを手に入れて一路、千歳空港へ。さらに大阪へ飛んで豊中市の夫の実家に行きました。福島から出るとあの殺伐さはなくなり、いつもの日常が流れていました。両親と兄も呼び寄せ、半月後、大阪市内の市営住宅に移りました。

 産婦人科を受診し、元気に動くおなかの子をエコーで見た時は「この子を元気に産むことだけを考えよう」。ストレスになるので震災のニュースが続くテレビはつけず、近所の人も親切にしてくれました。10月、長女を産んだ時は感動ひとしおでした。ずっと会いたかったから。

 震災から1年たち、夫の転職で、長女も連れて東広島市へ引っ越し。盆地に田んぼ、赤い瓦…。古里に似た風景に懐かしさを覚えます。毎年更新が必要だった被災者住宅から出られたので「いつまでこの生活が続くのか」という不安からも逃れられました。

 転勤族が多く、ママ友に聞かれても「福島出身」とはさらっと言います。空気が重くなり、相手に気を使わせるからです。しかし昨年2月、妹の住む東京で生活した両親と兄を再び呼び寄せた時、「避難者」という感覚はなくなりました。

 あの日、着の身着のままで家を出て「家族がいれば何もいらない」と気付かされました。盆や正月に帰省すると古里はここだと実感しますが、離れている負い目とフクシマを伝える責任も感じます。

 子育てが落ち着き、追悼平和祈念館が募っていた被爆体験記や原爆詩の朗読ボランティアに昨年、加わりました。カナダで1年8カ月間、日本語教育のアシスタントをした経験が生き、英語で朗読する担当になりました。ただ読むのではなく、被爆者本人の気持ちが伝わるよう努めています。2月にはドイツから訪れた若者たちに朗読しました。

 母と子の姿を描いた手記や子どもの詩を読むと「同じ思いを子どもにさせたくない」と母親の目になります。原爆も原発事故も過去のことにしたくない―。自己紹介でそう述べます。「桜梅桃李(おうばいとうり)」。自分にしかできない形で頑張ります。(文・山本祐司、写真・安部慶彦)

みちかみ・ゆか
 福島市出身。高校まで古里で過ごし、98年創価大卒。東京で会社員生活の後、01~02年にカナダで日本語教育のボランティアに参加。06年結婚を機に福島県いわき市に移る。東日本大震災後の12年から東広島市在住。

(2018年3月12日朝刊掲載)

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