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原爆ドーム「前身」 完成前年の予想図 広島県物産陳列館

チェコ出身設計者の水彩画発見

 世界遺産でもある原爆ドームの前身、広島県物産陳列館の完成予想図が広島市内で見つかった。チェコ出身の設計者ヤン・レツル(1880~1925年)が、完成前年の1914年に水彩画(約53×87センチ)で描いていた。日本人助手が経緯を記した直筆原稿の現存も分かった。

 レツルは07年に来日し、東京で建築事務所を開く。広島県知事に13年2月就いた寺田祐之の求めでデルタ中央部を流れる元安川の左岸、猿楽町(現中区大手町)に建てる物産陳列館を設計し、現地を訪れた。

 完成予想図は、れんが造り一部鉄骨で正面5階の屋根は銅板の楕円(だえん)形、壁が湾曲するモダンな造形を鮮やかに伝える。城下町時代からの雁木(がんぎ)や、対岸の慈仙寺鼻(現平和記念公園)を結ぶ相生橋も収める。「建築学士やん.れつる」の落款を左隅に押し、英字表題とサインを右隅に入れていた。

 事務所で働いた建築家市石英三郎氏が当時の日誌を基に残した原稿によると、レツルは13年6月設計にかかり、10月に仕様書などを含め県に送付。12月に広島へ向かい、14年1月16日に東京で「透視図を自ら仕上(しあげ)た」という。

 物産陳列館は1月に起工、翌15年4月に完成、8月5日に開館する。完成予想図は2階貴賓室に飾られていたが、被爆前に館外へ持ち出されたとみられる。

 原爆は45年8月6日、この建物の東南約160メートル、上空600メートルでさく裂した。96年に世界遺産となった。レツル直筆画は、広島商工会議所副会頭でもある田中秀和さん(68)=東区=が入手した。(西本雅実)

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直筆画にレツルの熱意 原爆ドーム「前身」完成予想図公開へ

おりづるタワー 「広島の宝」 経済人が力

 1945年8月6日を呼び覚ます原爆ドーム。もともとは広島県物産陳列館として15年に開館した「水の都」広島のシンボルでもあった。設計者ヤン・レツルが14年に描いていた完成予想図は、被爆地の経済人が協力して今夏、ドームを望む東隣の複合ビル「おりづるタワー」で展示される。(西本雅実)

 直筆画を入手したのは、南区の田中電機工業会長で広島商工会議所副会頭も務める田中秀和さん(68)。母が被爆し、幼いころは原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の検査対象者とされた。

 「広島の歩みをよみがえらせる宝物。購入にためらいはなかった」。33年に改称された県産業奨励館が44年の業務停止後に移したとみられる関係者の親族が受け継ぎ、中区の画廊を通じて持ち込まれたという。

 田中さんは、現存していたレツル直筆画の活用を探り、2016年にオープンしたタワーを運営する広島マツダの松田哲也会長(49)に見せた。広島の新たな魅力づくりを図る松田さんの思いに共鳴し、タワーへの寄贈を決めた。広島マツダはドームだけが残った猿楽町(現基町)で創業。祖父は原爆死した。松田さんは「保管方法もしっかり練り、8月1日には12階のおりづる広場で展示したい」と協議を重ねている。

 設計から作画までの経緯を記した文書もあった。レツルに師事した建築家市石英三郎氏が、広島市がドーム保存工事を初めて行った翌68年に書いていた。

 「原爆ドームの今昔」と題した直筆原稿は、市史編さんに当たった松林俊一さん(74)=安佐北区=がレツルの足跡を追うなか、82年に死去した市石氏を知る研究者から寄せられていた。

 長い間幻だった物産陳列館の完成予想図を確かめ、松林さんはこう話した。  「設計図に加え完成予想図を施工主に示す建築文化は広島では知られていなかった。レツルの熱意が浮かび上がる。市民の装いや屋台も描かれ、当時の暮らしとモダン都市へと歩む広島の姿が伝わってくる歴史的な絵画でもある」

(2018年5月13日朝刊掲載)

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