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社説・コラム

『言』 米での被爆体験継承 若者通じて世論変えよう

◆映像プロデューサー 竹内道さん

 被爆当時、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)院長だった祖父を持つ竹内道さんは、米国で若い世代にヒロシマを伝えている。核兵器禁止条約制定に尽力したカナダ在住の被爆者サーロー節子さんを追うドキュメンタリーも制作中だ。今も原爆投下は正しかったとして核戦力を誇示する超大国で「核なき世界」に向けて取り組む思いや展望を聞いた。(論説委員・森田裕美、写真も)

  ―長く反核運動や平和活動に関わっていたのですか。
 いいえ。8年ほど前、米国の高校や大学で軍縮教育を進める団体「ヒバクシャ・ストーリーズ」に出合うまでは、とにかく忙しく仕事をしていました。米国では核兵器はあって当然という雰囲気。私も深く考えることなく暮らしていました。

  ―それがなぜ、活動を。
 知人から通訳のピンチヒッターを探していると聞き、よく分からないまま参加したのが、ヒバクシャ・ストーリーズの会合でした。在米被爆者や日本から招いた被爆者を交え、次の軍縮プログラムに向けてオリエンテーションをしていました。自己紹介を求められた私が、広島出身で被爆2世であることや、当時赤十字病院長だった祖父は自らも被爆で重傷を負いながら治療に当たったようだと話すと、米国人メンバーたちは目を丸くして。あなたが語るべきだと言われました。

  ―生前におじいさんから被爆体験を聞いていたのですか。
 私はあえて聞かず、祖父も語りませんでした。でも、祖父の歩みが気になって調べ始めたんです。広島の原爆資料館や図書館に出掛けて病院や医療に関する資料や文献を読みあさり、情報の断片を寄せ集めました。

  ―何か分かりましたか。
 祖父・竹内釼(けん)は外科の軍医で1939年に広島に赴任しています。45年8月6日は院内で被爆して、何カ所も骨折した体で、運ばれてくる人たちの治療に当たったみたい。戦後も病院の再建に尽くしたようです。

 「夏草や廃虚に立てば去り難し」という句も残していました。県外出身だったのに戦後も広島にとどまったのは、惨状を目の当たりにし、生き残った者の使命として被爆地に生きようとしたのではないかと気付き、私も思いを新たにしました。

  ―残された記録から被爆体験に向き合ったのですね。
 昨年、国連で開いたイベントに参加した長崎の被爆者から、本当は娘に体験を話したくなかったと聞きました。娘に負担をかけるからと。亡き母を思い、水を掛けられたような気持ちでした。私の母は病弱で単に話したくなかっただけだと思っていましたが、もしかしたら母も私を守ろうとしていたのではないか。そんなふうに語られない記憶はたくさんあると知り、最近は若い人たちに、母の話もするようになりました。

  ―サーローさんとも活動を通じて出会ったのですね。
 そうです。節子さんは大切な肉親や同級生を亡くした悲しみを胸に、核兵器の残虐性を英語で訴え、世界中の人たちの心を動かしてきました。そうした被爆者たちの長年の積み重ねが、禁止条約制定に尽力した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))を支える欧米の若者たちの活動につながったと思います。活動を記録し、後世に残すべきだと考えるようになりました。

  ―それで映像を。
 ニューヨークで初めて新藤兼人監督の「原爆の子」を公開する上映会にも関わって、映像は頭よりも心に響くと実感しました。自らの言葉で告発し続ける被爆者の姿を目にすれば、米国の人たちも核兵器が遠い問題でないと気付けると思うのです。

  ―やはり米国では原爆や核兵器は「遠い」存在でしょうか。
 圧倒的多数の人は関心さえないでしょう。米国では、禁止条約もICANのノーベル平和賞受賞もほとんどニュースになりません。そもそも知る機会がないので、核兵器がどれだけ残忍か知らない。想像力も及ばない。だからこそ、これからの未来を担う若い人たちに働き掛けを続けています。

 気の遠くなるような仕事です。それでも子どもを通して親の考えが変わる場面にも出合います。小さな力でも地道に伝えることが世の中を変えると信じてやっていくしかありません。

たけうち・みち
 千葉市生まれ、広島市で育つ。広島女学院中高を卒業後、大学進学を機に米国へ。ワグナー大卒。大手広告代理店を経て、88年日本企業の海外ビジネスを支援する会社を設立。ニューヨーク在住。

(2018年8月5日朝刊掲載)

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