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戦後73年 帰らぬ母の遺骨 わずかな髪 遺族形見に

被爆者搬送 広島・金輪島

 原爆投下直後、大けがを負った被爆者が運ばれた金輪島(広島市南区)には、多くの遺骨が眠るとみられる。市は地権者との調整や費用などを理由に、発掘する予定はないという。戦後73年間、帰らぬ肉親を遺族は思い続ける。わずかな形見を遺骨代わりに、埋められない気持ちを抱えながら、自らも老いを重ねる。

 母が命懸けで残してくれたのは、焼けて縮れた髪だった。「熱かったろう、怖かったろうね」。東区の川口洋子さん(80)は、母の最期を思うと胸が痛くなる。でも強くて愛情深い人だった。遺髪は、そんな母の人柄を物語る。

 母小早川ハルコさん=当時(40)=は1945年8月6日、中区羽衣町の自宅付近で被爆。全身をやけどし、金輪島に運ばれた。10日に亡くなったという。一緒に運ばれたが命を取り留めた近所の女性が、その死を見届けていた。母は力を振り絞り、自分の髪を切って女性に託したという。

 当時、川口さんは7歳。上蒲刈島(呉市)の親戚宅に疎開していた。「お母さんから預かったの」。訪ねてきた女性から、白い包み紙を手渡された。そっと開けてみた。柔らかかった母の髪の名残はなかった。

 母は病死した父の後を継ぎ、羽衣町のジャム工場を経営していた。苦労が多かっただろうが、4人の子どもに暗い顔を見せたことはない。「忙しいはずなのに、化粧は欠かさない人でね。きれいな母が自慢でした」

 一つで父を亡くし、七つで母を原爆に奪われた。年を重ねるほど、喪失感は大きくなった。「母はどこかで生まれ変わって生きている」と自分に言い聞かせ、悲しみを我慢しながら生きてきた。

 そんな30歳のとき、思いがけないことが起きた。広島市が公開した原爆供養塔納骨名簿に、母の名前を見つけたのだ。市に問い合わせると、後日供養塔の前で片手に乗るくらいの小さな木箱をもらった。僧侶がお経を唱え、渡されたその木箱の中には、わずかな髪が入っていた。金輪島で母が死の直前に、軍人に渡した別の遺髪だった。供養塔に、遺骨の代わりに納められていた。

 瀕死の状態で、母は2人の人物に自分の髪を託した。それはどうか子どもたちに、気持ちを届けたい一心だったのだろう。母の強さと愛を、あらためてかみしめた。前を向いて生きていかなければ―。

 母が残してくれた二つの遺髪。墓に納め、お参りを続けている。次女の潤子さん(51)が付き添ってくれる。手を合わせてゆっくりと語り掛けている。(山下美波)

(2018年8月10日朝刊掲載)

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