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社説・コラム

『潮流』 最後の空襲

■ヒロシマ平和メディアセンター長 岩崎誠

 この日曜日、大阪市を訪れた折、久々にJR京橋駅に降り立った。米軍による「大阪最後の空襲」の爪痕をたどるためだ。大阪環状線などのターミナルで、学生時代によく通った駅。ここで1945年8月14日の白昼、爆撃で数百人の死者が出たことを最近まで知らなかった。昭和天皇の玉音放送の1日前である。

 駅南口を出ると折り鶴がささげられた慰霊碑があった。胸を痛めた住民の一人が終戦2年後に私費で建立したらしい。その日はB29の大編隊が少し離れた大阪城内の砲兵工廠(こうしょう)を襲い、流れ弾と化した1トン爆弾が、市民でごった返す片町線ホームを直撃する。

 碑の説明文は「断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのもの」と記す。白昼のホームに立ち、惨状を想像してみた。日本のポツダム宣言受諾が、もう1日早かったなら―。

 商都であり、軍都でもあった大阪への空襲は大小50回以上に及ぶ。実態を伝える平和ミュージアム「ピースおおさか」にも足を運んだ。砲兵工廠の診療所跡地という。戦後60年の節目に設置された中庭の空間「刻(とき)の庭」には、これまでに判明した9086人の死者の名前を、五十音順で刻んだ銘板がある。

 京橋駅で命を落とした人も含まれているはずだ。銘板の名を指でなぞり、生き地獄は決して原爆に限らなかったことを実感した。

 地元に暮らす被爆者や遺族が託したのか、ピースおおさかは広島と長崎の原爆資料も所蔵する。それらを公開するミニ展示会を開催中だ。広島の爆心地から350メートルにいた父親のベルトのバックル、溶けたビール瓶…。被爆地への関心と共感の深さを思う。

 被爆地の側も各地の空襲の実態をもっと知り、被災者に心を寄せたい。「一般戦災」と呼ばれて国の救済から切り捨てられたまま、戦後73年の夏が終わる。

(2018年8月30日朝刊掲載)

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