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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 川口弘子さん―教育熱心だった母失う

川口弘子さん(81)=広島市東区

死の床で求めたモモ 今も仏壇に供える

 川口(旧姓面家)弘子さん(81)は母との約束をよく覚えています。「死ぬときは親子一緒に死のう」。1945年当時、天満国民学校(現天満小)3年。戦争が激しくなり、広島から郊外(こうがい)の寺に姉と一緒に集団疎開(そかい)しました。親から離れて暮らすのはつらいものでした。家に戻りましたが広島はいつ空襲を受けてもおかしくなかったのです。

 8月6日に米軍が投下した原爆は、母と姉だけを奪(うば)っていきました。8歳の脳裏に焼き付いた体験を忘れたことはありません。

 川口さんは爆心地から約1・2キロの上天満町(現広島市西区)の自宅近くで被爆しました。友達と川へ遊びに行く途中(とちゅう)、敵機の飛行機雲を目撃(もくげき)。近所の軒下(のきした)に入り、両手で目と耳をふさぎました。建物の下敷きになりましたが、隙間(すきま)から自力ではい出しました。やけどやけがはありませんでした。

 自宅の前で母静子さん(当時33歳)と再会。母が救急袋だけを持ち出し、一緒に逃げました。配給を受け取りに出掛けていた母は、自宅に戻る途中で背後から閃光(せんこう)を浴びました。体の後ろ全体をやけどし、落ちてきた瓦(かわら)で頭に大けがを負いました。治療(ちりょう)を受けられると知って己斐国民学校(現己斐小)にも行きました。

 その後、避難場所になっていた空き地で、松本工業学校(現瀬戸内高)2年だった兄敏之さん(86)と会うことができました。兄は学徒動員先に向かう途中で被爆し、自宅へ引き返しました。自宅のそばに迫(せま)っていた火の手を、防火バケツを使って消し止めたそうです。

 同じ天満国民学校の6年だった姉スミエさん(当時11歳)は学校へ出掛けたまま帰ってきません。朝、姉は学校へ行くのを嫌がっていましたが、高等女学校に通わせたかった母は休ませませんでした。

 川口さんは母、兄と一緒に自宅へ戻りました。周りの負傷者が郊外に避難した時も、母は「スミエが帰ってくるまで離れられない」と自宅にとどまりました。

 母は寝たきりになり、やがて叔母が来て看病してくれました。母の背中のやけどはなかなか治らず、うじ虫が湧きました。母は「痛い」とも「かゆい」とも言いません。ただ「モモが食べたい」と言うので、叔母が買ってきて食べさせてくれました。息を引き取ったのは9月4日。姉に会いたい一心で生きていたのだと川口さんは思っています。

 父の利男さんは1938年、32歳の時に中国で戦死していたため、家族は兄と2人。親戚(しんせき)宅の納屋に置いてもらった後、叔母と叔父が育ててくれましたが、希望していた高校進学を断念します。

 叔父が営む家具製造会社を手伝う傍(かたわ)ら、20歳から経理学校へ通い、簿記(ぼき)検定2級を取得しました。「楽しかった」と当時を振り返ります。22歳で結婚し、2人の子どもと5人の孫、2人のひ孫に恵まれました。しかし90年には甲状腺(こうじょうせん)がんを患い、原爆症認定を受けています。

 自分の被爆体験記を、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に寄せました。厳しいけれど、優しかった母のことも触れました。教育熱心だった母は幾つも仕事を掛け持ちして朝から晩まで働き、習字やバレエの習い事もさせてくれました。

 仏壇(ぶつだん)にはモモを供え、墓参りしては母と会話しています。「罪のない子どもを巻き込んでしまう戦争は絶対にいけない。子や孫、ひ孫のためにも、元気で長生きしたい」と願います。(増田咲子)

私たち10代の感想

家族への愛 どの時代も

 川口さんは、母親のことを「偉大(いだい)な存在」と話していました。被爆直後は、母親の死を悲しめないくらい非現実的な日常に混乱していたけれど、今では母親の墓へ行き、涙を流したり、おしゃべりしたりするそうです。どんな時代でも家族への愛情はかけがえのないものだと実感しました。私も、家族や周りの人たちに、感謝の気持ちを込めて恩返しをしたいと思いました。(中3風呂橋由里)

勉強できる環境に感謝

 勉強が好きだという川口さん。母は教育ママでした。「子どもに残せるのは教育だ」と言っていたそうです。母を原爆で亡くし、高校進学を諦(あきら)めなければなりませんでした。しかしその後、頑張って資格を取りました。「もっと勉強することができていたら人生は変わっていた」と言います。恵(めぐ)まれた環境(かんきょう)に感謝し、悔(く)いのないよう勉強に励(はげ)みたいです。(高2池田杏奈)

(2018年9月3日朝刊掲載)

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