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社説・コラム

『論』 「ピカッ」が問うたもの 自ら壁を作っていないか

■論説委員 藤村潤平

 福島市がJR福島駅近くに設置した子どもの像「サン・チャイルド」が先月、1カ月余りで撤去された。大阪出身の現代美術家ヤノベケンジさんが「福島の人々を勇気づけたい」と原発事故をきっかけに制作した作品である。

 宇宙服のような防護服を着て、ヘルメットを手にし、胸元の放射線の線量計を模したカウンターは「000」と表示する。その姿に、市民から「風評被害を増幅させる」「線量ゼロは非科学的」などの批判が相次いだ。

 多くの人の目に触れる公共空間でのアートの在り方が問われた。よりあらわになったのは、原発事故が今なお住民に及ぼす苦しみだったように思う。

 一方、ネット上ではこんな書き込みがあったという。

 「これがダメなら、福島県民以外の人が福島の人に寄り添うのは、難しくなるのでは」

 思い出すのは、10年前の10月21日、広島市の原爆ドームの上空に浮かんだ「ピカッ」という文字である。東京の芸術家集団「Chim←Pom(チンポム)」が、飛行機の白煙でゲリラ的に描いた。

 目撃した市民や被爆者から「不快だ」「気味が悪い」との声が上がった。原爆を意味する「ピカ」は、被爆者にとっては日々の暮らしを暗転させられた言葉だ。73年前の夏、人類未曽有のえたいの知れないものに遭ったことを表す実感がこもっている。

 表現の自由があるにしても、公共空間での行為は許し難い―。そういう気持ちになるのは、この地に生きていれば、自然なことだと思う。一方で、そんな被爆地に暮らす人間の意識が、外部との間に壁を作ることもある。あの騒動は、その典型だったのではないかとの思いに駆られる。

 そもそも「ピカッ」は、原爆に対してリアリティーを持てないという若者の現実を表したものだった。平和についての想像力をテーマにし、東京の若者として問題意識を持った作品とも言える。その意味では、チンポムは敵対するような存在ではなかったはずだ。

 それなのに、3日後には被爆者団体を前に謝罪会見を開くことになった。リーダーの卯城(うしろ)竜太さん(41)は「被爆者に不快な思いをさせたのなら申し訳ないが、一般社会とアートにはギャップがある。それが表面化したときに議論したいと考えていた。しかし、一面的に捉えられ、議論の余地のない数日間だった」と振り返る。

 広島市中区でレコード店を営む大小田(おおこだ)伸二さん(53)も、チンポムに憤った一人だった。「センスの悪い、いたずら」と非難し、関係先に押し掛けてメンバーの謝罪を求めた。身内に被爆者はいないが、友人が広島県外に転校して原爆の話でからかわれた経験などから「許せない」と思ったという。

 その後、卯城さんとの交流などを通して、活動に共感していく。「地元だから原爆をよく知っているという意識があったかもしれない。自分自身の変化を含め、周囲と語り合いたいテーマができた」

 騒動の中での救いは、卯城さんらが被爆者団体との対話を続けたことだろう。

 その対話は、2009年に出版した騒動を考察する本「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」(河出書房新社)に生かされた。広島県被団協の坪井直理事長(93)は、対談で「手順が、ちょっと足らなかったかもわからん」とゲリラ的な行動を戒めつつも、「悩むほうがええんですよ」と背中を押していた。

 完成させた作品を含む「広島」展を来年3月に米ニューヨークで予定している。「なぜ―」の英訳本を出す計画もあるという。

 卯城さんらは、原発近くの帰還困難区域で展覧会を開くなど、福島での活動も続ける。会場には作品が飾ってあるだけで、再び住めるようになって初めて展覧会として成立するという。記憶の風化にあらがっているのだ。

 先の「サン・チャイルド」の件が話題になると、卯城さんはこうも指摘した。「福島でも壁は高くなっている。広島と似ていると思う部分がある」。ドキッとさせられる言葉だった。

(2018年10月11日朝刊掲載)

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