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原爆孤児の記録 後世に 「育成所」220点 原爆資料館へ寄贈

設立者長男「歩み知って」

 1945年8月6日の原爆で親を奪われた子どもたちを受け入れた「広島戦災児育成所」の記録が、公的に保存・活用される。設立者の故山下義信氏が残した220点余の全資料を、長男晃さん(87)=広島市中区=が25日、原爆資料館へ寄贈した。語られることが少ない「原爆孤児」の日々をはじめ広島復興期の内実を伝える貴重な史料でもある。(西本雅実)

 育成所は市郊外五日市町(現佐伯区皆賀)に設けられた。未曽有の混乱が続く45年12月23日、学童疎開先に引き取る親族も現れない7人から受け入れる。

 仏教者の山下氏(1894~1989年)は、広島へ復員すると、「原爆孤児が悲惨な状況にある」のを聞いて「放置できない」と当時の知事に直談判。県農事試験場跡を借り、私財を投じて開設した。次男を原爆で失っていた。

 資料は、「父となれ、母となれ」が合言葉の職員らが46年1月19日の開所式間もなくから付けていた「保育日誌」、朝昼晩の献立の「炊事日誌」や、子どもたちの内面にも言及する「寄宿舎日記」、山下氏直筆の「育成の若干の記録」などからなる。同年の食糧危機の頃は、幼児17・学童61・職員16人に「配給の高梁(こうりゃん)(モロコシ)」に加え、青年団からの「恵贈のお餅」でしのいでいた。

 育成所の子どもたちは、昭和天皇の47年12月の広島巡幸で対面し、原爆被害の体現者、復興平和を願う象徴的な存在とみなされる。米国の市民が養育費を送金する「精神養子」も49年に育成所を対象に起こった。計171人を育成し、53年1月に広島市移管となるまでの資料がそろっている。

 晃さんは、受け継ぐ資料の寄贈を決めた思いをこう話す。「原爆で子どもたちはどんな犠牲を強いられたのか、国や県・広島市はどう対処したのか。義信らの努力にとどまらず、広島の歩みを知ってほしい」。自身は広島二中(現観音高)2年の夏に被爆した。

 資料館は、「山下義信資料」として収め、記載された個人情報を保護しながら今後の調査研究・展示に生かす考えだ。

すごい積み重ね

  育成所と出身者の軌跡「生き抜いた三〇年」を75年に中国新聞で連載した島津邦弘さん(76)の話
 食糧にも事欠く時代に子どもたちを受け入れ、記録を日々積み重ねたこと自体がすごい。義信さんは参議院議員となり57年の原爆医療法制定にも尽力したが、晩年は地元でも忘れられていた。貴重な生資料を読み直してヒロシマを伝えるのは資料館の務めだと思う。

(2018年10月25日朝刊掲載)

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