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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山中エミ子さん―惨禍の証言 命ある限り

山中エミ子さん(84)=呉市

助けてくれた男性の手。つかむと皮むけた

 呉市に住む山中エミ子さん(84)は「命ある限り、核廃絶(はいぜつ)を訴えたい」と、被爆体験を語っています。2011年には非政府組織(NGO)ピースボートの船旅にも参加し、日本政府の「非核特使」となって、世界各地で証言しました。

 被爆当時は江波国民学校(現江波小)6年で、高宇(たかう)という名字でした。倉橋島村(現呉市)に疎開していましたが、はやり目の治療のために江波町(現中区)にあった自宅へ戻っていました。8月6日朝、眼科へ行く途中で警戒(けいかい)警報が発令され、乗っていたバスを降ろされました。

 歩くうちに、げたの鼻緒(はなお)が切れました。ハンカチですげ替(か)えようとしていると、工場の男性が「暑いけえ、中に入ってすげんさい」と麻(あさ)のひもをくれたのです。鼻緒を直そうとした瞬間(しゅんかん)でした。「ピカッ」。太陽が落ちたかのような強烈(きょうれつ)な光を感じました。爆心地から約1・4キロ、住吉橋近くの水主町(同)でした。

 息ができなくなり、気を失ってしまいます。われに返って「助けて、助けて」と言うと、別の男性が、がれきをどけてくれました。その手をつかむと、相手の皮がずるっとむけました。互いの指と指を引っかけるようにして引っ張り出してもらいました。

 逃げても火の手は追い掛けてきます。吉島町(同)の広島刑務所辺りで再び意識を失うと、「江波に帰る者はおらんか」という声が聞こえました。顔見知りの人でした。ほかの人たちと一緒に、舟に乗って江波に帰ることができました。

 自宅は半壊(はんかい)し、誰(だれ)もいません。近所の女性が、江波の陸軍病院の分院に連れて行ってくれ、体に刺(さ)さったガラスを取ってもらいました。その後、自宅近くの防空壕(ぼうくうごう)で、母と弟4人に会えたのです。

 さらに無事だった父とも合流でき、倉橋で暮らした後、10月ごろ広島へ戻りました。被爆後、髪(かみ)の毛が抜け、歯茎(はぐき)からの出血や鼻血、下痢(げり)などに悩まされ、体調はすぐれませんでした。

 戦後は京都の洋裁学校へ進み、広島の百貨店、福屋に勤めました。付き合っていた男性にプロポーズを受けましたが、その親から「被爆者はいらない」と反対されたこともあります。

 別の男性と結婚したのは22歳の時でした。子宝にも恵まれました。しかし甲状腺(こうじょうせん)がんなど幾つもの病気に見舞われました。被爆した父もがんに苦しみ、53歳で亡くなっています。「同じ苦しみを誰にも味わってほしくない」と、30年ほど前から子どもたちに被爆体験を語り始めました。

 昨年12月には、ピースボートが企画したツアーに参加して、ノルウェーのオスロにも行きました。核兵器禁止条約を推進した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式がオスロで開かれ、平和賞を祝うパレードに参加しました。「世界の人々の核廃絶を願う気持ちと熱気を感じた。ノーベル賞は世界平和に向けた『始まり』」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 ただ、核保有国はいまだ禁止条約に背を向けています。被爆国の日本もそうです。米国のトランプ大統領が中距離核戦力(INF)廃棄(はいき)条約からの離脱(りだつ)方針を表明するなど、核軍縮の流れに逆行する動きが再び起きています。

 山中さんは「人類を滅亡(めつぼう)させる核兵器は絶対に反対。未来を生きる人たちに青い地球と緑の大地を残すため、これからも語り続けたい」と強調します。(増田咲子)

私たち10代の感想

全ての国 核捨てるべき

 世界一周の船旅などで証言をした山中さん。「海や空に境界線はない。世界中から核を廃絶(はいぜつ)すべきだ」という言葉が心に残りました。つらくてむごい核兵器の被害を絶対に繰(く)り返(かえ)してはいけない、という強い思いを感じました。世界には、いまだに核兵器を保有し続けている国があります。全ての国が核兵器を捨てるべきだと心から思いました。(中2岡島由奈)

前向きな考え 心に残る

 病気に苦しんだ山中さんが「前向きに考えることが大切だ」と強調していたのが印象的でした。もし私が同じ立場だったら、自分の未来が見えず、物事を悲観的に考えていたかもしれません。そんな状況(じょうきょう)の中で、「大丈夫(だいじょうぶ)だ」と思って多くの苦難を乗(の)り越(こ)えてきた山中さんから、被爆の経験だけでなく、生きる上で大切なことを学びました。(高3岡田実優)

(2018年12月3日朝刊掲載)

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