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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 河野昭人さん―「愛あれば戦争起きん」

河野昭人(こうの・あきと)さん(91)=広島市東区

失われた友らの命。 今も目を腫らす

 広島市中区の相生橋に立った河野昭人さん(91)は、「ここに来るとつらい」と繰(く)り返します。原爆が投下された日、自宅を目指して通った時の悲しい別れを思い出すからです。日頃は温和な目に涙(なみだ)をため「愛があれば戦争は起きん」。語気は強まっていました。

 1945年当時は18歳、広島電気学校(現広島国際学院高)2年生でした。前年、軍隊に行った父舛一(ういち)さんがフィリピン・ルソン島で戦死した通知が届き、長男として自分はどう家族を守ればいいか、不安を背負って暮らしていました。

 8月6日の朝は、祇園町長束(現安佐南区)の倉庫に学徒動員されていました。米やしょうゆなど陸軍の食料をいちど倉庫で保管し、各部隊へ送るのが仕事です。広島市牛田町(現東区)の自宅から自転車で着き、着替えて倉庫のいすに腰掛(か)けた時、パッーと光線を浴びます。

 爆心地から4・1キロ。それでも爆風で4、5メートル吹き飛ばされました。すぐに裏の防空壕(ごう)へ走りましたが、人々でいっぱい。近くの山へ逃(に)げ込(こ)みました。市街地に目を向けると、火の海です。頭をよぎったのは家族の安否でしたが、すぐには帰れません。

 猛火(もうか)が落ち着き始めた夕方、山を下りました。朝に通った三篠橋は、くの字に折れ曲がって渡(わた)れず、南へ向かいました。横川駅前は悲惨(ひさん)です。骨組みだけ残る黒焦(こ)げの電車、馬の死体…。「頭が痛いけん見てくれ」と言う中年男性を見ると、頭が割れ血が吹き出ています。「かすり傷よ」と気休めの言葉をかけ、後にしました。

 パンクした自転車を押(お)しながら爆心地そばの相生橋を渡る時、反対側から見知った顔が来ました。やけどもしていないその女学生は、なんと初恋の人でした。目が合ったように感じましたが、声は掛けられないまま。自分の家族が心配で、すれ違(ちが)いました。橋のたもとで市民に石を投げつけられる米兵捕虜を見ながら、足を急がせました。

 「水をくれ」と叫ぶ人たちで混雑する饒津(にぎつ)神社前を過ぎ、やっと帰宅。無事だった母君子さんや、きょうだい2人と抱(だ)き合い、生きる喜びを肌(はだ)で感じました。

 ただ、家族以外の親しい人たちの命が失われたことを後に知ります。動員先を休んだ水主(かこ)町(現中区)の同級生を訪ねると「米国に爆弾を落としてやる」と憤(いきどお)る父親がいました。その友人は家の柱の下敷きになったのです。相生橋で別れたあの女学生も亡くなったと聞きました。「一緒(いっしょ)に戻ろうと声を掛けていれば。かわいそうでやれん」と目を腫(は)らします。

 戦後は生活に必死でした。母が働きに出ましたが自分も郵便局に勤め、一家の柱に。父の偉大(いだい)さを悟(さと)ります。給料だけでは足りず、休日は時計職人の友人の元へ3年通い、修理の技術を身に付けました。同僚(どうりょう)の腕時計を直しては、修理代を生活費やきょうだいの学費に充(あ)てたのです。

 59年に妻洋子さん(81)と結婚します。まもなく息子2人にも恵(めぐ)まれました。長く住む牛田地区に貢献(こうけん)しようと71年から46年間、町内会長を務め、広島市原爆被爆者協議会の牛田支部長も続けています。

 原爆資料館が発信している被爆者証言ビデオにも登場しました。求められれば被爆体験を語っています。約10年前に夢で見たというメッセージをよく口にします。「一つは心の交わり」が大切だと。「愛」という漢字を分解すればそう読めるそうです。その思いの底には戦争で失った愛が重なっています。(山本祐司)

私たち10代の感想

原爆で心もズタズタに

 河野さんは、今も後悔しています。あの日家に向かう途中、相生橋で出会った女学生と、そのまま別れてしまったことです。「あの時一緒に帰っていれば」と、涙をこらえる姿が胸を突きました。私も同じ状況(じょうきょう)だったら、そう行動したかもしれません。大切な人や生活を奪(うば)うだけでなく、人の心もズタズタにするのが、戦争や原爆です。(中2岡島由奈)

独特な表現 理解深まる

 「愛がないから戦争するんじゃ」。地元の町内会長を40年以上務めた河野さんは、そう繰り返しながら、ほかにも分かりやすい言葉で教えてくれました。「戦争」に返り点を打って「争いはせん」―。ユニークながら思いがこもっていました。「長寿(ちょうじゅ)の記録をつくる」と目指すように、まだまだ元気でいてほしいです。(高2平田佳子)

(2019年2月4日朝刊掲載)

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