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市女生犠牲 母の思い 故坂本さんら娘の最期語る追悼祈念館の映像に反響

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)で1月に始まった企画展「流燈」で流れる映像が、反響を呼んでいる。原爆で生徒666人が死亡した広島市立第一高女(市女、現舟入高)の悲劇を伝えるため、犠牲者の母で語り部の先駆けだった故坂本文子さんたち遺族の思いを30分に凝縮する。(桑島美帆)

 1957年に発行された追悼誌「流燈」に寄せられた遺族たちの手記を映像化した。繰り返し登場するのが88年に80歳で死去した坂本さん。2年生だった長女築山城子(むらこ)さんの最期を語った生前の映像である。「城子じゃけ返事したでしょ。もう死ぬるよ」「ぶら下がったその手、皮膚の中から私の手を握るんですね」

 坂本さんは45年8月6日夕、1、2年生が建物疎開作業に動員された材木町周辺で夫と娘を捜し歩いた。やけどで顔が腫れ、元安川の石の上に座っていた城子さんを見つけるが、深夜、収容先の救護所で息を引き取る。

 映像には修学旅行生に体験を伝え続けた坂本さんが「平和の礎になってくれたんだと思えば諦めがつく」と明かす場面もある。「平和のこと よろしく」という本人の言葉を刻んだ平和記念公園南側の天満神社にある石碑も紹介する。

 故森本トキ子さんの手記の再現映像も胸に迫る。1年生だった娘の幸惠さんは被爆から1週間、生き続けた。母の手記によると「天皇陛下万歳万歳」と両手を上に挙げて「お父ちゃん、お母ちゃん、お姉ちゃん永らくお世話に成りました」と言い残したという。

 当時、2年生で体調を崩して作業を休んだため命を拾った矢野美耶古さん(87)=西区=が戦時中の学校生活を振り返る証言もある。「東洋平和のためと教育された多くの子どもが亡くなり、生き残ったことが負い目になった。戦争は本当に嫌だ」と矢野さんは言う。この企画展を多くの人に見てもらいたいと願う。

 訪れた静岡県藤枝市の大学生鈴木茂紀さん(22)は「これから勉強や楽しいことがあったはずなのに、早く戦争をやめる方法はなかったのか。心が苦しくなった」と見入っていた。

(2019年2月4日朝刊掲載)

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