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連載・特集

退位を前に 天皇とヒロシマ <1> 壊滅4年後の訪問

原爆の子ら 願いかなう

 <死没者の名簿増え行く慰霊碑のあなた平和の灯は燃え盛る>

 天皇陛下が平成元年の1989年に広島を訪れて詠まれた「お歌」だ。被爆地ヒロシマとの関わりは皇太子さまの頃から深い。退位が近づく中、歴年の訪問を巡る記録を掘り下げ、接した市民らの思いを追う。原爆被害はどう語られてきたのか、何が問われているのかを探る。(西本雅実)

 初めての訪問は、広島市が米軍投下の原爆で壊滅した4年後の1949年にさかのぼる。きっかけは、爆心地一帯となった基町(現中区)で広島児童文化会館が落成した前年、市内児童代表らが「お出まし」を願い送った手紙からだった。

 返書があった。穂積重遠東宮大夫(戦前は東京大法学部長)が、48年4月29日付で楠瀬常猪知事に宛てた書簡を収めた写真が残る(市立中央図書館蔵)。

 「諸君の力で世界平和の中心都市となることを祈るといふお言葉」を寄せ、愛読した世界名作物語集や、野球道具を贈っていた。

 児童文化会館は、教職員有志や僧侶らが「原子砂漠の児童に希望を」と建設を呼び掛け、市外残存の旭兵器地御前工場を移設して同5月3日に開館する。

15歳の春休み

 そして、皇太子さまは、学習院高等科に進む15歳の春休みを充て49年4月5・6の両日、爪痕が濃いヒロシマを巡った。

 広島駅に着いた5日は、焼け残った鉄筋市庁舎で熱線を刻む瓦など「原爆記念品」を見て4階屋上から市内を展望。被爆者でもあった浜井信三市長が説明に当たった。宿泊する宮島へ向かう途中には車から降り、五日市町(現佐伯区皆賀)にあった「広島戦災児育成所」で暮らす児童生徒ら約80人の奉迎を受けた。

 6日は、米国が宇品港そば旧凱旋(がいせん)館に置いた原爆傷害調査委員会(ABCC)研究所を見学し、1400人を収容する児童文化会館での「歓迎会」に臨む。「お言葉」全文を掲載していた夕刊ひろしま翌7日付から引く。

「かたい決意」

 「あの惨劇に二度と人類をおとし入れぬよう、私たちはかたい決意をもつて平和に向(むか)わなければなりません…私も責任を自覚して勉強や修養に努力したいと思います」

 この後、慈仙寺鼻(現平和記念公園)に立つ「平和塔」から「供養塔」を巡り祭壇で礼拝した。

 会場では、「昨晩は県庁の中原さんから経験談をきき当時の模様をしのびました」とも述べていた。

 県出納長で元市考査役の中原英一さんだった。府中町本町の三男英夫さん(76)や市の記録によると、被爆当日から庁舎で寝泊まりして死者・負傷者収容や食糧確保などを率いる。粟屋仙吉市長は原爆死していた。

 「お迎え」のあいさつは本川小6年西林斌(たけし)さん。修道中3年の時に「煉瓦(れんが)の下から人骨が出た おどろかない不感症」と書いた詩は、峠三吉らが編んだ「原子雲の下より」(52年刊)に収められる。2008年に死去していた。

 万歳三唱は、鯉城高(現国泰寺高)3年今田耕二さんが執る。学徒動員にあった前身の広島一中2年時の夏、原爆に遭った。

 「無念の惨死や、未(いま)だに行方不明となっている少年少女たちの悲劇を…広く内外に知らしめるべしであろう」。私家版で「慟哭(どうこく)の廣島」を著した14年、自宅がある兵庫県で亡くなる。

 原爆を肌身で知る児童生徒らが願い迎えた中から、今日に続く「慰霊の旅」は始まった。

(2019年2月5日朝刊掲載)

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