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連載・特集

退位を前に 天皇とヒロシマ <2> 1960年

式典参列 碑前でお言葉

 天皇陛下は皇太子殿下だった1960年、8月6日の平和記念式典に参列し、原爆慰霊碑(52年建立)に初めて献花された。

 今日に続く式典で広島市と県の唯一の共催でもある。日米安保条約の改定批准を巡り列島が騒然とした60年、ヒロシマも揺れた。

県と市の共催

 「政治的な含みが多分に認められる」(「広島県議会史」第6巻)。被爆者救済も訴え始まった原水爆禁止世界大会が59年夏の第5回大会に改定阻止を掲げると、開催に伴う県補助金案を自民党県議団は否決。さらに、県主催の「原爆犠牲者の大慰霊祭執行」を発議し、決議をみた。  県と市の正副議長会談が、両自治体幹部の同席で60年2月17日に開かれる。

 県側は、平和記念公園で大慰霊祭執行の意思を正式に伝え、「皇太子、各政党々首、政府要職者の出席を求める」とした。市側は、同じ日時・場所の開催に異議を唱えたが「県は市の面子(めんつ)を立てる様に」と要望。県議会議長が配慮の旨を述べると、「ここに至って市側から県市合同執行案が提出された」。

 会談の内幕から「原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典」に至る一連の記録は、県立文書館に移管されている。「皇太子殿下行啓計画書」も収められる。

 皇太子は、東京18時30分発・広島6時49分着の寝台特急「あさかぜ」で8月6日早朝に降り立つ。

 60年式典は、原爆死没者名簿を大原博夫知事と浜井信三市長が一緒に奉納。知事式辞に続いて、皇太子は原爆慰霊碑に花輪を供え、午前8時15分の黙とうを前に「お言葉」を述べた。

 「今この原爆慰霊碑の前に臨み、感慨切なるものがあります。ここに深く追悼の意を表すとともに今後再びこのようなことのないよう、世界の平和を念願してやみません」

若き作家らも

 式典後は広島原爆病院を訪ねた。56年の開院から60年6月までに延べ995人が入院し、死亡患者は121人を数えていた。

 重藤文夫院長が「急に原爆症が出て…」と説明していたのが、重富芳衛さん。元毎日新聞記者で立町(現中区)の自宅で妻と被爆し、一報を可部署(現安佐北署)から送ったが幻の記事となる。広島で情報誌「セブンウイクリー」を発行し、入院すると「原爆病院雑記」で訪問をめぐる様子も書く(60年10月号)。

 「十万円の見舞金を要求する」といきまいた女性が「一番行儀よく皇太子を迎えた」と苦笑まじりに記し、「みんなやはり日本人だという気がした」という。再入院した翌61年5月に53歳で死去した。

 皇太子は、公園内にあった市公会堂併設の新広島ホテルに宿泊。翌8月7日は原爆資料館(55年開館)などを見学した。

 資料館には、安保闘争から生まれた「若い日本の会」メンバーが前日に訪れた。「若い広島の会」(松元寛代表世話人)の呼び掛けに応じた、大江健三郎、開高健、城山三郎さんら。くしくも同じ「あさかぜ」で広島に着いていた。

 大江さんは「ヒロシマ一九六〇」を寄稿した(中国新聞8月7日付掲載)。

 「8時15分がきたとき、私は私のまわりの群衆がいっせいに身震いのごときものをしめし…」と式典のさまを描く。訪米を翌月に控える皇太子に「私たち日本人の広島をめぐる深い祈りをつたえていただきたい。私は期待する」と結んだ。自身は3年後から「ヒロシマ・ノート」を著していく。(西本雅実)

(2019年2月6日朝刊掲載)

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