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連載・特集

退位を前に 天皇とヒロシマ <3> 記憶すべき日

非戦思い年4回黙とう

 天皇、皇后両陛下が初めて広島県を一緒に訪問されたのは、ご成婚から9年の1968年。皇太子ご夫妻山陽路の旅は、県内では福山から尾道、三原市と巡り7月26日午後3時すぎ広島駅に着く。沿道にかけて約13万人が出迎えたという。

 被爆地は、高度成長の波に乗って「支店経済」都市ともなる。市の人口は55万人台に。同時に影も濃かった。「原爆スラム」と呼ばれた違法・老朽住宅群が市内63地区に6256世帯を数えていた(66年調査)。

特別に話聞く

 ご夫妻は平和記念公園の原爆慰霊碑に花束をささげ、原爆資料館では「8月6日」の遺品や写真に足を止められた。初めて訪れた美智子さまは「しばしば目を伏せられ」たという(中国新聞68年7月27日付)。

 翌27日は呉市を訪れ、皇太子は旧音戸町の県水産試験場を見学し、妃殿下は市役所で島に住む女性たちと懇談。厳島神社に参拝して宿舎ホテルへ戻る。そこで、「行啓御日程細目」(広島市立中央図書館蔵)にない行動に臨んでいた。

 広島赤十字病院兼原爆病院長の重藤文夫さん(1903~82年)と、広島大原爆放射能医学研究所長の志水清さん(06~91年)を招いて話を聞く。1時間半にも及んだという。

 重藤さんは広島駅で被爆した直後から救護に努めた。志水さんは外地にいたが、次男で広島二中1年の淳さん=当時(12)=を動員先で失っていた。病院長は白血病など原爆症の治療研究に取り組み、所長は「原爆被災の本質」に迫る「爆心復元調査」を率いる。

 現東広島市出身の重藤さん旧宅には半生を賭した資料が残る。「皇太子殿下」と表書きした68年の紙袋からは、「患者について申(もうし)上げます」の直筆や、寄稿が出てきた。「原爆が後世にまで及ぼす影響をつきとめて追究しなければならない、と思うのである」と書いていた。

 「東京は一面の焼け野原でした…」。当時11歳、45年11月7日に疎開先の栃木県・日光から帰京して見た光景を、皇太子は宮内記者会との会見で折に触れた(「新天皇家の自画像」89年刊)。会見は誕生日と夏の年2回。メディアの報道はおしなべて小さかった。

式典中継問う

 しかし81年8月7日の会見の扱いは違った。終戦の日への「感慨」を問われ、自らの思いを率直に明かしたからだ。全問答の記録(宮内庁作成)を得た。

 「やはり、こういう戦争が二度とあってはいけないと強く思います」といい、「記憶しなければならない」と四つの日を挙げた。

 「広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙とうを捧(ささ)げて、今のようなことを考えています」。「平和を守っていきたいものと思っています。これは子供たちにも、ぜひ伝えていかなければ」と述べた。

 質問は、チャールズ英皇太子の結婚式に参列した感想に始まり、政府が求めた「室温28度」の省エネ政策と多岐にわたっていた。その中での発言だった。

 「記憶すべき日」に沖縄戦終結を挙げた関連質問で「地上戦は日本全土の中で沖縄だけですね」と答え、「どうして」8月15日の全国戦没者追悼式と8月6日の平和記念式典だけに「(全国)中継をするのか」と記者たちに問い掛けていた。

 広島の式典はNHKが58年からテレビ中継した。長崎の平和祈念式典の全国中継は2000年、沖縄全戦没者追悼式は08年からである。(西本雅実)

(2019年2月7日朝刊掲載)

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