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連載・特集

退位を前に 天皇とヒロシマ <5> 平成という時代

貫く平和 国民の意思で

 天皇陛下は戦後50年「慰霊の旅」の翌1996年10月11日にも、原爆慰霊碑に皇后と向き合われる。国民体育大会出席から。第51回大会が広島県であった。

 「慰霊の旅」に続き碑先導を務めたのが、広島市長だった平岡敬さん(91)。その前に県庁での「御昼食」席上で思いも掛けぬやりとりになった。「市長さん、本を出されましたね」

 自著「希望のヒロシマ」(岩波新書96年7月刊)は、「核兵器廃絶を明確にする条約を結ぶことによって、世界は希望の未来へと…」。95年11月7日の国際司法裁判所(ICJ)での市長陳述に至る、ヒロシマを巡る動きや考えを記す。また自身が育った朝鮮半島の植民地支配に始まる日本の戦争責任を指摘した。

 「朴賛珠(パク・チャンジュ)さんに会われましたか…」。朝鮮王族、李鍝(イ・ウ)公の妻で遺児も話題にされた。李鍝は学習院から陸軍士官学校へ進み、広島に置かれた第二総軍の教育参謀となり被爆の翌日に32歳で死去した。

 「陛下、読まれたのですか」。思わず聞くと「皇太子から勧められました」と返ってきたという。

予期せぬ質問

 原爆資料館長だった原田浩さん(79)も「思いもせぬ」質問を受けた。広島県での第46回全国植樹祭出席に伴い95年5月20日、即位後初の資料館見学で説明に当たる。話す内容は事前に宮内庁へ提出していた。

 「ところで、その時あなたはどちらに?」「広島駅、爆心地から約1・9キロで遭いました」。途端に変わった顔色からもヒロシマへの思いを感じたという。

 天皇の名のもとに始まり終わった戦争からの原爆投下。昭和天皇は初の訪米後75年10月31日の記者会見で、「遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」と述べた。

 原水爆禁止広島県協議会の抗議には、宮内庁長官から異例の返書が届く。「投下を肯定する意味合いのご発言ではさらさらなく…」(全文は「原水爆禁止運動の歩み」に収録)。ただ被爆者らの間にはわだかまりも残り、昭和は閉じた。

 天皇は即位10年の会見で、「長く続く放射能の影響の恐ろしさを世界の人々にも理解してもらう」重要性を挙げた。即位20年の会見では、「昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います」と述べた。戦後70年である2015年の誕生日会見でも「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていく」必要性を重ねて述べた。

 しかし今、被爆地でも原爆を巡る記憶は薄らぐ。

次代継承促す

 「ヒロシマ戦後史」の著者宇吹暁さん(71)は、18年「歌会始の儀」で<広島のあの日を語る語り部はその日を知らぬ子らの瞳(め)の中>が選ばれ披露されたことに着目する。「昭和、平成の記憶を、次世代にも受け継いでほしいという意思がうかがえる」

 平岡さんは、現憲法下で初めて即位した天皇と、平成という時代をこう見る。「昭和天皇の責任を自覚し象徴天皇制を確立したのではないか。その天皇の言動をたたえるあまり、私たちは、天皇制を深く考えずに権威をもって平和や憲法を守ろうとしてはいないだろうか」

 憲法で天皇の位置づけは「主権の存する日本国民の総意に基づく」。新たな元号になっても平和を貫くのは何より国民の意思であるはずだ。(西本雅実)=おわり

(2019年2月9日朝刊掲載)

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