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連載・特集

[つなぐ] 在日本広島韓国人連合会事務局長 李政樹(イジョンス)さん

まず相手知ることから

 戦後来日した「ニューカマー」と呼ばれる韓国人たちが昨秋、親睦団体「在日本広島韓国人連合会」を発足させた。李政樹さん(52)=広島市東区=は初代事務局長に就いた。「日本語を話せても外国で孤立する韓国人は多い。見落としがちな支援をしていく」と意気込む。

 自身もニューカマー。1993年春に外国青年招致事業(JETプログラム)の国際交流員として来日し、山口県庁に配属された。以来、在日年数は四半世紀を超える。広島に移り住んだ今も広島大や市民講座などで韓国語を教えながら西広島日韓親善協会、NPO法人広島国際交流センターに所属し、日韓の青少年交流を陰で支える。

 「若い人は偏見に固まることなく柔軟。時にぶつかり合いながら理解し合う」。原点は93年に仲間と始めた青少年交流「慶南青年カレッジ」にある。山口県の大学生と釜山市や昌原(チャンウォン)市の大学生が、互いの街を行き来しながら異文化に親しみ意見交換をする。息の長い親善事業に育ち、これまで約千人が参加した。

 歴史問題の討論を企画したときのことだ。韓国の学生は詳しいのに日本人は関心が低く、議論がかみ合わない。徐々にけんか腰になり、険悪なムードになった。「急きょ就職や恋愛、食べ物に話題を変えると、一気に和やかな雰囲気になった」と振り返る。

 出身は韓国南部の馬山(マサン)市(現昌原市)。慶南大で日本語教育を専攻し、卒業後、迷わずJETに応募した。日本に引き寄せられた背景には、父命祚(ミョンジョ)さん(91年に69歳で死去)の存在が大きい。植民地時代に14歳で徳山市(現周南市)へ渡り建設会社を起業。日韓国交正常化(65年)前の日本で人脈を広げ、帰国した。「小さい頃から父が話す日本語や、お土産のおもちゃとお菓子に触れ、日本に憧れるようになった」

 JETの任期が切れた後も日本にとどまることを決意。97年に広島大教育学部に留学した。植民地時代の朝鮮半島で行われた日本語教育を研究テーマに修士号と博士号を取得。12年前からは、慶南青年カレッジのヒロシマ学習を引率し、平和記念公園を案内するだけなく、必ず被爆者の話を聞く場も設けている。

 来日当初は珍しかった日韓交流だが、2002年のサッカー・ワールドカップ共催をはじめ、韓国ドラマを契機とした「韓流」ブームやK―POP人気の効果で昨年初めて往来人数が1千万人を突破した。しかし元徴用工訴訟判決やレーダー照射問題などを巡り、両国の関係は大きく揺らいでいる。

 ふだん政治問題はあえて口にしないが、「今の日韓関係はいろいろな要因で動く。自分の立場で見るから相手がなぜ怒っているのかわからないのでは」とみる。だからこそ「生身の人間が会い、相手を知ることから始めるべきだ」という思いを強める。「ご飯一さじでも他人に与えられる人間になれ」。父の口癖を胸に、日韓の懸け橋を築きたいと願う。(桑島美帆)

(2019年2月25日朝刊掲載)

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