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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 放射線副読本

■論説委員 藤村潤平

新たな「神話」 生むつもりか

 放射線を少量浴びると人の体にどのような影響があるのか。そんな問いを胸に3年前、本紙連載「グレーゾーン 低線量被曝(ひばく)の影響」の取材で原発事故後の福島を歩いた。

 「問い」といっても、一応の答えは示されている。100ミリシーベルト以下の低線量被曝の影響は「科学的に十分に解明されていない」と言われる。つまり、はっきりしない。

 一般に放射線を浴びた量が増えるとがんになる確率が上昇することは、広島・長崎の被爆者の追跡調査で明らかになっている。

 ところが、100ミリシーベルト以下では発がんのリスクが増すかどうかは研究者で見解が分かれる。現実としても生活習慣や喫煙といった他の発がん要因と混ざってしまい、現代の科学では見極められない。だから「十分に解明されていない」と言うよりほかはない。

 福島で取材した際も、多くの被災者が低線量被曝の問題で悩みを抱えていた。自宅の周りの除染は十分か、知り合いの家で出された山菜に手を付けるかどうか…。話を聞くほどに、答えを簡単に出せない気持ちは痛いほど分かった。

 そんな福島の現状を、国はきちんと受け止める気があるのか。全国の小中高生にこのほど配られた「放射線副読本」を手に取って、そんな思いに駆られた。文部科学省が小学生向けと中高生向けの計1450万部を1億8千万円かけて作った。4年半ぶりの改訂である。

 改訂前は、100ミリシーベルト以下の被曝の影響について「はっきりとした結論は出ていない」と記していた。それが改訂後は削除された。

 代わりに書き加えられたのが、100~200ミリシーベルトの被曝の影響だ。発がんのリスクは、野菜を少ししか食べなかった場合や塩分の高い食事を取り続けた場合と「同じ程度」と記す。要は、大したことはないと言いたいのか。「原発安全神話」の帰結として住民に被曝を強いながら、それはないだろう。

 今回の改訂は、復興庁が2年ほど前にまとめた「風評払拭(ふっしょく)・リスクコミュニケーション強化戦略」に基づく。福島への差別や偏見、風評被害が根強いとして、放射線の知識や復興の現状を広く情報発信する取り組みである。原発事故後に横浜市に自主避難した中学生へのいじめが社会問題になったのが契機になった。

 むろん被災者や避難者への差別やいじめはあってはならない。しかし、「いたずらに不安をあおる」という理由で、低線量被曝に一切触れないのは、心配する被災者の悩みそのものを否定するのに等しい。

 副読本では、福島で子どもの甲状腺がんが多く見つかっていることにも全く触れられていない。県の検査では、定説を覆すような人数の患者が見つかっている。詳しく調べることで無症状や微小ながんまで発見する「過剰診断」との指摘もあるが、目を背けていい事実ではなかろう。

 かねて副読本を分析してきた福島大の後藤忍准教授(環境計画)は、今回の改訂で焦点がいじめ問題にすり替えられたとみる。その結果、「いわれのないいじめを受けているという構図を、放射線による健康不安がないことが前提に成り立たせようとしている」と指摘する。

 放射線副読本の始まりは、文科省と経済産業省が共同で2010年に作ったエネルギー教育の副読本にさかのぼる。「わくわく原子力ランド」「チャレンジ!原子力ワールド」という題名から想像できる通り、ことさら原子力を持ち上げ、原発の安全性を強調していた。

 それが3・11後には文科省がホームページに載せていた副読本を削除し、全国各地の自治体でも自主回収や利用中止が相次いだ。

 それをもう忘れたのだろうか。交通網などインフラの復興は進んでいるとしても、いまだ4万人以上が避難し、避難指示が解除されても住民の帰還の動きは鈍い。それも原発事故から8年後の福島の姿である。都合の良い事実が並べられた副読本を見ていると、新たな神話が作られようとしていると思えてならない。

(2019年3月7日朝刊掲載)

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