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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山口裕子さん―両親 祖母 姉も奪われた

山口裕子(やまぐち・やすこ)さん(86)=広島市東区

苦労重ね22歳で大学に進学。 教育の道へ

 山口(旧姓加藤)裕子さん(86)は爆心地から約2・9キロの比治山高女(現比治山女子中・高、広島市南区)の1年でした。8月6日朝、建物疎開(そかい)作業の前に学校へ集合しました。教室にいると目もくらむような閃光(せんこう)に包まれました。

 その朝、広島の中学や高女の生徒たちは市中心部の建物疎開に動員され、至近距離で原爆に遭いました。比治山高女は校長の判断で現地集合としなかったため山口さんたちは救われたのです。それでも校舎は猛烈な爆風に見舞われます。

 山口さんは防空頭巾(ずきん)をかぶりながら机の下にもぐり、目と耳、鼻を押さえましたが細かく砕けたガラスで両ひじやひざ、足の甲(こう)をけがしました。級友も傷つき、泣き声やうめき声を上げていました。

 校庭に出ると、巨大な雲が湧(わ)き上がり、追われるように小高い丘に避難(ひなん)しました。市街地が燃えるのが見えましたが、家族の無事を信じていました。

 その家族は爆心地から約800メートルの堀川町(現中区)で時計店を営んでいました。山口さんは7人きょうだいの6番目。家には両親、祖母、一番上の姉初子さんと、2番目の姉季子(すえこ)さんがいるはずでした。

 しかし自宅周辺は火災で近づけず、その夜は学校の寄宿舎に泊めてもらいました。翌日に家族を捜し、夕方になって初子さんとばったり会いました。「みんなは」と聞くと「だめじゃったんよ」。

 木造3階建ての自宅は一瞬で倒壊(とうかい)しました。初子さんはがれきの中からはい出しましたが、季子さんは梁(はり)に押さえられ、母は下の方から「うちに爆弾が落ちました。助けてください」と叫んでいたそうです。初子さんは梁をどけようとしますが、どうしても動かせません。火が迫り、逃げざるを得なかったと聞きました。

 焼け跡(あと)からは両親と祖母が変わり果てた姿で見つかりました。行方が分からない季子さんの名前は東練兵場(現東区)の収容者名簿(めいぼ)にありましたが、捜し出せませんでした。

 自宅跡で見つかったのが花模様(もよう)の皿です。家族の思い出がよみがえる品として、山口さんは今も保管しています。

 生き残った姉妹は遠戚(えんせき)の家に避難します。やがて初子さんは高熱が出て髪が抜け、体中に紫の斑点(はんてん)が浮かびました。目や鼻からも出血し、家族を助けられなかった罪悪感に苦しみながら、被爆から18日後に亡くなりました。

 戦後、残された山口さんはさまざまな苦労をしました。親類の援助で学校に戻り、大陸から復員した兄の仕送りを受けました。高校卒業後、大阪で会社勤めをしてお金をため、22歳の時に広島大に進みました。

 目が不自由な子どもたちの教育に携わりながら、28歳で結婚。4人の子どもに恵まれました。高校時代には寄宿舎で一緒に生活した英語の先生の影響で、カトリックの洗礼を受けています。その縁から、広島で被爆したドイツ出身のフーゴ・ラサール神父から聞き取りをするなどして、被爆体験記の発行にも尽力しました。

 ことし、ローマ法王フランシスコが被爆地の広島と長崎を訪れる見通しです。山口さんは「宗教や民族の垣根(かきね)なく、みんなが心を一つにしてほしいという思いを、一人でも多くの人にくみ取ってほしい」と受け止めます。

 「戦争で犠牲になるのは子どもや弱い人たち。絶対にしちゃいけない」と思い出の皿を前に強調しています。(増田咲子)

私たち10代の感想

夢への行動力 胸を打つ

 山口さんは原爆で両親を亡くして大変な苦労をしながらも、「どうしても勉強したい」という強い思いで大学へ進学しました。広島で教育の仕事に就(つ)く夢を実現した行動力と覚悟(かくご)に胸(むね)を打たれました。豊かな時代に育った私たちこそ、勉強して多くの経験を積むことを怠(おこた)らず、戦争で苦しむ人を生むことのない社会を築かなければなりません。(高3松崎成穂)

家族奪う原爆 恐ろしく

 山口さんの一番上の姉は自宅の下敷きになった家族を必死に助け出そうとしますが、火が迫ってきてその場を離れざるを得ませんでした。家族を救えなかった姉や、その様子を聞いた山口さんの気持ちを想像すると、大切な人を奪ってしまう原爆は残酷(ざんこく)で、恐(おそ)ろしいものだと感じました。同じ悲劇(ひげき)を繰り返さないよう、多くの人に伝え継いでいきます。(高3池田穂乃花)

(2019年3月11日朝刊掲載)

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