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社説・コラム

天風録 『原爆孤児として僧侶として』

 「疎開」の2文字が、広島では悲しく響く。あの日、市街地の建物疎開に伴う作業に駆り出されて、ピカに焼かれた多くの学徒がいる。逆に田舎に疎開して助かっても、とどまった家族を奪われた子らがいた▲きのう訃報を聞いた諏訪了我(りょうが)さんは当時、国民学校6年で、三次に疎開していた。生家のお寺は爆心近くにあって両親と姉を一度に失う。辺りは寺の多い街だっただけに、孤児となった新発意(しんぼち)さん、つまり住職後継者は諏訪さん一人ではなかった▲お寺に帰れば焼け野原、がれきの中に墓石群や庫裏の敷石が転がっていたという。寺が父祖の地で再建されることはなかった▲「こんなにきれいであっていいものじゃろうか」。被爆33年の頃、かつての境内の砂を諏訪さんは握り、こう本紙でつぶやく。幼心に刻まれた街が現実の平和記念公園とどうにも重ならず「おざなりな造形」の中にいるようだと感じていたらしい▲<生きのびてともにまた見む桜の春>。半生を振り返る晩年の講演で、諏訪さんは亡き母の句を引いた。平和の2文字を冠した造形より、子を思う母の心情を生きるよすがにしたのかもしれない。桜の季節を待たない、急な旅立ちが惜しまれる。

(2019年3月14日朝刊掲載)

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