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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 震災遺産とは何か

■論説委員 田原直樹

「物語」に触れ 自分の痛みに

 「東日本 巨大地震」。大見出しの付いた2011年3月12日付の福島民友新聞は、福島県浪江町の販売店に残っていたものだ。地域は原発事故で避難を余儀なくされ、ついに配られなかった。

 ぐしゃっとつぶれた鉄塊は、富岡町で避難誘導中に津波にのまれたパトカーのドア。1人は殉職し、1人は行方不明という。避難所の貼り紙も残る。「お湯 赤ちゃんのミルクに―」と手書きした紙や家族への伝言。しかし翌日、住民は別の場所へさらなる避難を強いられた。

 当時の緊迫感を伝え、胸の詰まる品々が会津若松市の福島県立博物館に並んでいる。同館と太平洋側の浜通り地域の資料館などによる「ふくしま震災遺産保全プロジェクト」が収集した約2500点のうちの100点余りだ。

 毎年この時期に開かれている「震災遺産を考える」展だが、館長を務める民俗学者、赤坂憲雄さんは語った。「手探りなんですよね」。津波や原発事故でズタズタにされた住民とその営み。一体何を残すべきか、震災遺産とは何か。自問しながら収集しているそうだ。

 記録だけが目的ではない。「いつの日か来る南海トラフ地震へ教訓として生かせるはず」と赤坂館長。まなざしは福島県の外にも向けられている。物だけ残したのでは、いずれ「何これ?」となりかねない。学芸員らは被災者に聞き取りをし、物にまつわる「物語」を記録する。未配達の新聞は5年前に現地へ入り収蔵したものだ。販売店主から当時の状況を聞き取り、放射線量も測った。

 プロジェクト終了後も博物館は事業を続けている。「災害史」担当学芸員を1年前に採用。その学芸員は浜通りに通い続け、「ようやく顔の見える関係ができた」と言う。

 津波や原発事故の被害が大きかった浜通りと、内陸にある県立博物館は直線距離で約100キロ。地域の歴史や文化も異なる。物語を紡ぐにも「顔の見える関係」を築いてこそに違いない。

 宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館でも、被災資料の展示を見たことがある。自らも被災した学芸員が、津波にのまれたランドセルや炊飯器といった「被災物」に、あの日の惨状や持ち主の心情を語らせる形をとっていた。福島県立博物館では震災遺産一つ一つに詳しい説明文を付けていないが、物語は想像され、伝わってくる。

 震災から8年。記憶や関心が各地で希薄になりかけているのは、残念ながら否めまい。

 危機感もあってか、津波にのまれた建物などを震災遺構として残すケースもある。しかし復興の進む土地で、あるいは同じ福島県でありながら津波、原発事故の被災地から離れた中通りや会津地域で、震災をどう伝え、警鐘を鳴らし続けるか。震災遺産と「物語」に、その役割を期待したい。

 「奪われた命と暮らしを考えることこそミュージアムの使命です」。博物館で美術を担当する学芸課長の川延安直さんはそう強調する。

 浜通りの小中学校でワークショップを開くうち、福島の命と暮らしが自然災害と原発事故という人災によって奪われたと痛感したそうだ。

 「でも視点を広げると、同じような地は全国にある」。災害の被災地は枚挙にいとまがない。人間の所業が命と暮らしを奪った地もある。公害では水俣、戦争では原爆で焼かれた広島、長崎もそうだろう。

 苦悩を先に背負った地の歩みや、どう克服したかを学ぼうと、水俣や広島などで震災を考える催しを、川延さんは開いてきた。さまざまな被災地の博物館を結び、「人類としての記憶の共有をしたい」という。

 考えてみれば、いずれの地も「物語」を蓄積し、命と暮らしを奪われた痛みや悲しみ、怒りを伝える。広島では被爆建物や品々を保存し、被爆者自身も体験を語ってきた。

 遠い地であっても、できるだけ多くの被災の物語に触れておこう。悲劇を繰り返さないための反省、備えとなるだろう。いつ自分の物語になるかもしれないのだから。震災遺産の中に、親や子の名を書いた貼り紙「探し人」を見て、そう思った。

(2019年3月14日朝刊掲載)

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