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連載・特集

原爆資料館 その歩み <上> リニューアル

惨禍の展示 原点に回帰

 広島市中区の平和記念公園に立つ。原爆資料館が25日、耐震化による2年間の閉鎖からリニューアルオープンする。人間に投下された原爆の惨禍を伝える資料館は、市が被爆10年後の1955年に開き、累計入館者は3月末で7227万人余を数える。正式名は広島平和記念資料館の歩みを掘り下げ、ヒロシマを考える。(西本雅実)

 「1945年8月6日」を刻み警鐘を鳴らす「無言の証人」を現在、資料館は2万524点収蔵する。  廃虚からの収集に努めたのが、初代館長に就く長岡省吾氏(1901~73年)だ。大竹市玖波の旧宅屋根裏で見つかった膨大な文書・写真類を、次男錬二さん(77)=広島市東区=らが2015年4月に館へ寄託。不明な点が多かった開館への歩みも分かってきた。

 長岡氏は、広島文理科大(現広島大)地学科の研究補助員で学生といた山口県、現上関町で原子雲を目撃。手記「廢墟(はいきょ)に佇(た)つ」(50年)によると翌7日、東千田町(中区)の大学で、採取してきた化石鉱物類もボロボロなのを見て涙した。

 国の特別立法・広島平和記念都市建設法の公布から49年9月25日、基町(同)の市中央公民館に置かれた「原爆参考資料陳列室」で集めた瓦や溶融塊片などを展示。前年に「臨時調査事務を嘱託」されていた。50年8月6日、隣に木造平屋132平方メートルの「原爆記念館」ができると、館長兼ただ一人の職員となる。

市民協力の収集

 「母は玖波で文房具店を営み家計を支えました」。錬二さん自身は中学生になると、父に命じられて爆心地近く富国館ビルの避雷針などを切り取ったという。

 長岡資料からは「伝説」の記録が出てきた。

 米軍によるビキニ水爆被災が起きた54年、氏編集の「HIROSHIMA」(46ページ)や、発行した「広島原爆資料集成会後援会」の趣意書があった。「幾多の資料を蒐集(しゅうしゅう)し」に賛同する会員には、「原爆記念文庫」を65年に資料館へ託す山崎与三郎氏ら、被爆地からの訴えの礎をつくった人たちが直筆で名を連ねていた。

 約1万2千点の長岡資料を整理した下村真理学芸員(47)は、「収集展示は市民も協力して始まった」のをかみしめる。開館は55年8月24日である。館長を退いた翌63年に展示品1500点を寄贈した「永久保存」リストが館に残っていた。

実物資料を柱に

 やがて市は、被爆直後の人間の姿をろう人形で「リアルに」再現する展示を打ち出す。「世界の人々は模造ではなく被爆資料そのものを見に来るのだ」。長岡氏は反対したが死去の73年に設置。91年に作り替えられた3体の人形は強烈さから人目を引きつける。

 2010年策定の展示整備等基本計画を受け、有識者による展示検討会議は「実物資料」が柱の内容を協議し、人形の撤去も確認した。するとネット上で反対の署名活動が起こった。

 今回の展示資料538点を選定してきた落葉裕信学芸員(41)は、「一人一人の死、遺族の悲しみ、被爆者の苦しみを感じられる、想像ができるよう」に心掛けたという。原爆被災白書の作成と国連への提出を60年代半ばに提唱した、金井利博氏の言葉も意識した。

 「原爆は威力として知られたか 人間的悲惨として知られたか」。長岡、山崎氏らと同じように資料収集に半生を懸けた。リニューアル展示は、ヒロシマの原点に立ち返り人間として核兵器を考える場である。

(2019年4月20日朝刊掲載)

原爆資料館 その歩み <中> 語られざる展示

原爆資料館 その歩み <下> 核廃絶へ問われる真価

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