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連載・特集

新時代へ 広島市現代美術館30年 ヒロシマ 平和発信 在り方を模索

 広島市現代美術館(南区)が比治山の高台に開館して今月で30周年を迎えた。公立の美術館では初めて現代アートに特化した同館の歩みは、「平成」と重なる。新元号を迎えた今、被爆地にある現代美術館に求められる役割とは―。識者や関係者の意見を交え、考える。(森田裕美)

 上質な紙を切り裂くように「H」の文字がデザインされている。同館の開館当時のポスターだ。30年の歩みを振り返る特別展「美術館の七燈(しちとう)」(26日に閉幕)の会場に並んでいた。「イニシャルはエッチ」とのキャッチコピーと共に、とがった表現がバブル経済に沸いた往事の空気をしのばせる。

 こうした資料が今、華々しく、浮いたようにも感じられるのは、現状の裏返しだからかもしれない。開館初年度に32万8千人を超えていた来館者数は、翌年度に25万人を割って減少の一途をたどる。2000年代半ばには10万人を下回った。底は打ったものの、近年は10万~14万人台で推移しているのが実情だ。

危機や困難を経験

 平成と重なるこの30年、同館の足跡は平たんではなかった。開館まもない頃には高額のコレクション購入を巡る汚職が世間を騒がせた。続いてバブル経済の崩壊と景気の長期低迷、経費削減に向けた指定管理者制度の導入―。

 開設準備段階から22年にわたり同館と共に歩んだ元副館長竹澤雄三さん(75)は「いくつもの危機や困難を乗り越えてきた」と認めつつ、「今は良くも悪くも落ち着いている。半面、市民に存在感が薄れているのでは」と指摘する。特別展を中心に「なぜ今、なぜここで、といった展示の必然性を伝える力が弱まっているように感じる」という。

 無論、美術館の価値は来館者数だけでは測れない。しかし、広島市にある現代美術館に期待される役割の一つは、「ヒロシマ」だからこそできる取り組みではないか。広島を拠点に国内外で活躍し、17年のベネチアビエンナーレ国際美術展で日本代表を務めた美術作家岩崎貴宏さん(44)は、「ヒロシマというアドバンテージを生かしきれていない」と率直な思いを語る。

 世界に名を知られるヒロシマは、作家なら誰もが一度は滞在し、作品を発表したいと考える地だという。しかし、同館の特別展などで取り上げられているのは「ヒロシマという文脈で今まさに生まれるアートよりも、東京や都市部発の『完成品』のように感じる」という。「ヒロシマで誰に何を見せるのか。ターゲットや戦略が見えない」と残念がる。

被爆の記憶に焦点

 同館は被爆から復興したデルタを望む比治山に開館して以来、「現代美術による平和発信」をうたう。平和に貢献した美術作家に贈るヒロシマ賞を3年に1度開催。コレクションは、第2次世界大戦後の思潮を示す作品やヒロシマと関わる作品を軸にする。

 13年に就任した福永治館長(63)も「当然、ヒロシマを意識せざるを得ない」と語る。特別展でも被爆の記憶と結びつく地元ゆかりの作家らに光を当てた独自企画に力を入れてきた。

 「ただそればかりでは来館者から不満の声も出る。ヒロシマを巡る表現にはさまざまな感情もある。多様な思いに気づきながら、訪れる人たちと一緒に在り方を考えていける館でありたい」と福永館長。

 同館は来年度、いったん閉館して大規模な改修工事に入る。「国際平和文化都市として復興した広島の今を実感できる拠点」として「平和の丘」整備を目指す市の計画の要となる。ヒロシマの地にある現代アートの拠点をいかに未来に生かすのか。知恵を絞る好機である。

(2019年5月29日朝刊掲載)

新時代へ 広島市現代美術館30年 <下> つなぐ 地元若手の支援に課題

 4月下旬の日曜日。広島市現代美術館(南区)に人があふれていた。

 同館が2014年度から毎月1回日曜日、子ども向けに取り組む「ツキイチ・ワークショップ」の開催日だ。特別展や所蔵作品展にちなんだワークショップを展開し、毎回順番待ちが出る人気事業だ。この日は想定を超える600人近い親子連れが訪れ、段ボールを使った「まちづくり」に挑んだ。

 ここ数年、同館の来館者数は底を打っている。特別展など展覧会への来場者数は減少傾向だが、同館が「普及事業」と呼ぶこうした取り組みへの来館者は伸びているためだ。

教育や普及に注力

 背景には「子どもの頃から美術館に親しむ体験を提供し、将来に向けて来館者を増やしたい」という狙いがある。実際、過去にワークショップへ通った子どもが美術の仕事に関心を持ち、大学の実習で同館を再訪したケースもあったという。

 「ツキイチ」の待ち時間には、アート・ナビと呼ばれるスタッフが子どもたちを特別展に案内し、出品作などを解説するツアーも実施。若い世代に向けた教育・普及への力の入れようがうかがえる。

 未来の来館者を増やすための積極的な取り組みには、希望の光が見える。その一方で、複数の美術関係者からこんな声も聞く。「地元で活動する作家の卵や若手をもっとサポートするべきでは」―。

 開館初年度に同館が主催した第1回公募「広島の美術」で大賞を受けた美術作家佐古昭典さん(60)は「現在の作り手にとって現代美術館は遠い存在」と話す。例えば特別展などの開幕日。「かつては若い美術作家がこぞって訪れていた」が、最近は「代わりに市職員や主催者ら関係者が目立つように見える」。

 同館がオープンした30年前、佐古さんたち当時の若手作家は、発表の場ができたことを喜び、大いに盛り上がったという。この公募展は広島出身者や在住者を対象に03年までの隔年で計8回開かれた。地元の若手にとって格好の挑戦の場となり、意気込みを感じさせる作品も目立ったという。審査結果も若手が中堅ベテランを抑え、広島の美術界に新たな風を吹き込む役割を果たした。

 だが05年に同館が「応募作品のレベルアップを図る」として募集要件を国内外に広げ、別の公募展を始めると応募数は減り、地元の作家離れは進んだ。

 「東京中心のアートを紹介する場となれば、ここ広島の作家にとっては面白くないだろう」。そうおもんばかるのは、同館の建設計画委員などを務め、30年余りを見つめてきた広島大名誉教授の金田晉(すすむ)さん(80)だ。

担い手がいてこそ

 この30年、地方の美術を巡る環境は大きく変わった。公募展で受賞すれば作家として安泰という時代は去り、会派も先細りしている。

 そんな状況下で、「今まさに創作をしている作家同士が横のつながりを保つのが難しくなっている」と金田さん。だからこそ現代美術館には、広島の現代の作家をつなぐ役割を果たしてほしいと願う。「地方の美術は担い手がいてこそ成り立つ。広島の作家たちよ、もう一度集まれと呼び掛けるような企画があってもいい」と提案する。(森田裕美)

(2019年5月30日朝刊掲載)

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