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社説・コラム

『今を読む』 ジャーナリスト 伊澤理江

東海村臨界事故から20年 「想定外」 3度目は許されぬ

 「あの日、町から人が消えて。お客さんは原子力関係者だけ。後部座席から『なんで、あそこで臨界事故が起きるんだ』って会話が聞こえた」。そう地元のタクシー運転手は振り返る。

 20年前、茨城県東海村のジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で事故は起きた。2人の作業員がステンレス製のバケツと漏斗(ろうと)を使って大量のウラン溶液を沈殿槽に流し入れ、臨界が発生。中性子線とガンマ線が体を突き抜け、2人は急性被曝(ひばく)により亡くなった。住民を含む667人が被曝。裏マニュアルによる違法作業の常態化や、危険性を知らされずに作業していたことなどが後に分かる。

 この事故を機に、何か変わったのか。日本社会は教訓を得て生かしてきたのか。

 ネットメディア「Yahoo!ニュース」特集の取材で今年2月、関係者を訪ね歩きルポ「20年前の『想定外』―東海村臨界事故の教訓は生かされたのか」にまとめた。

 当時のキーパーソンたちは「あの事故で安全神話が崩壊した」と口をそろえた。それまで原子力事故は起きないと誰もが信じ、事故に備える法律も整備されていなかった。

 「想定外」の場所で起きた「想定外」の事故。「原子力事故は起こりうる」。それが最大の教訓のはずだった。

 東海村の事故の約11年後、福島第1原発で「想定外」の事故は再び起きた。しかも深刻度を示す国際基準は東海村の「レベル4」に対し、福島はチェルノブイリ原発事故と同じ「レベル7」だった。

 東海村元村長の村上達也氏は言う。

 「日本全体では原子力推進の力学が圧倒的に強くて。臨界事故も、うかつな、ちっぽけな会社JCOが(バケツを使って)いいかげんなことをしたから起きたと総括した。本質的な問題に『バケツ』でふたをして、矮小(わいしょう)化したんです。政府や原子力界は、日本全体の問題として捉えなかった。そして福島の事故まで一直線に進んでしまった」

 実際、「バケツの事故」と記憶している人は少なくない。

 村上氏は反原発にかじを切った。原子力施設が立地する自治体の首長が反原発の立場を公言するのは極めてまれだった。原子力関係の団体や保守層の圧力を受け、選挙では激しい逆風を感じたという。

 しかし、2013年に引退を決めるまで選挙に勝ち続けた。住民の声なき声の表れか。東海村には原子力事業所で働く人やその家族も多い。原子力に関する意見を表立って交わしにくく、決まったことには異を唱えにくい風潮がある。そうした住民も、事故当日に国の判断を待たず住民を避難させた村上氏の英断を評価する。村職員を含め、村上氏を慕う人は今も少なくない。

 教訓が全く生かされなかったわけではない。事故後、原子力事故を想定した原子力災害対策特別措置法ができた。東海村では万一に備え、安定ヨウ素剤の備蓄を開始。13の原子力関連施設の場所が把握できる地図を配るなど、住民への情報周知も推進した。事故の際、JCO東海事業所が村のどこにあるのか、知らない人が多かったためだ。

 被曝した作業員の治療に当たった医師の前川和彦氏も取材した。事故後、放射線災害医療研究所を立ち上げ、関係者と10年間、全国を行脚した。文部科学省の依頼を受け医療関係者らの研修も実施。原子力事業者と医療関係者をつなぎ、顔の見える関係を築いた。「原子力と医療」のつながりは強固になり、福島の事故では、これらの研修を受けた他地域の人材が応援に入り、大いに役立ったという。

 前川氏は「福島の事故が大きすぎて(事故時の体制整備に)ついていけない自治体もある。神奈川県などは原子力災害拠点病院も決まってない」と語った。各種の対策についても、縦割り行政の弊害が出ていると指摘する。

 つまりこうではないか。

 東海村と同規模・同レベルの事故については、対策を練り、現場では万一に備えた訓練も重ねてきた。ただ東海村よりはるかに規模が大きく、はるかに深刻な福島級の事故に対しては臨界事故後も想定はしていなかった。

 村上氏は「『原子力事故は起こらない』といううぬぼれ、過信もあったし、それは今もあると思う」と言う。

 福島の事故も次第に風化しつつある。3度目の「想定外」は許されない。

 英国ウェストミンスター大学大学院ジャーナリズム学科修士課程修了。Yahoo!ニュース特集などネットメディアを中心に取材・執筆活動を行う。「フロントラインプレス」所属。共著書に「『わたし』と平成」。

(2019年6月11日朝刊掲載)

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