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戦争体験媒介 被爆者と共鳴 四国五郎の歩み検証 大阪大でシンポ

シベリアからヒロシマへ 新たな表現切り開く

 被爆地から終生、反戦反核の思いを絵や詩に託し、没後に再評価が進む四国五郎(1924~2014年)。被爆当時は広島にいなかった四国がどう当事者性をつかみ、ヒロシマの表現者となっていったのか―。その歩みを検証するシンポジウムが、大阪府豊中市の大阪大で開かれた。

 同大総合学術博物館待兼山修学館で開催中の「四國五郎展」の関連イベント。展覧会を企画した同大の宇野田尚哉教授の司会で、広島大の川口隆行准教授▽原爆の図丸木美術館の岡村幸宣学芸員▽米オーバリン大のアン・シェリフ教授▽近現代史研究者の小沢節子さん-が意見を交わした。

 現在の三原市に生まれ、広島市で暮らした四国は1944年に召集されて従軍とシベリア抑留を体験。48年、変わり果てた広島に復員し、最愛の弟の被爆死を知る。その怒りと悲しみを原動力に創作を続けた。

 川口さんは四国の手書きの自伝などを紹介しながら彼にとってのシベリア抑留の意味を考察した。旧ソ連との異文化接触や収容所内の民主運動を目の当たりにし「将来の核となるような学びの場でもあった」などと語った。岡村さんは、四国が占領下に取り組んだ原爆表現を解説した。日記や書簡などから、「原爆の図」を共同制作した丸木位里・俊夫妻と四国が交流し、影響を与え合った可能性にも言及した。

 ただその後の50年代半ばからは原爆を突き詰める表現がしばし影を潜める。シェリフ教授は、この時期の四国が反戦の訴えをもっぱら「母子像」に託していたと指摘。戦火にさらされる母子を捉えたベトナム戦争の報道も影響したのではないかとみる。

 原爆を描かなかった背景には、直接被爆を体験していない「後ろめたさ」があったようだ。それを打破する「ブレークスルー」として小沢さんが指摘するのが、74年にNHKが市民に募った「原爆の絵」への関わりだ。四国はテレビ出演し、「うまく描けなければ文字で説明を」などと、絵を描いたことのない被爆者たちに呼び掛けた。その際、敗戦時に助けを求めてきた幼子たちを救えなかった自身のつらい記憶を例示したという。

 「生き残った被爆者との共鳴板になり得る戦争体験を媒介に、被爆者の記憶に近づき、描くことへの確信を得たのではないか」と小沢さん。「市民が被爆体験を絵にして他者に伝え始めた場に立ち会い、自らも新たな表現を切り開いた」と述べた。それが絵本「おこりじぞう」などで知られるその後の活動につながったとの見方を示した。

 展覧会は20日まで。無料。日曜・祝日休館。(森田裕美)

(2019年7月2日朝刊掲載)

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