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連載・特集

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <2> 新たな本館で

感じる展示 少ない説明 「遺品寄せた思いを」

 原爆資料館本館(広島市中区)は4月、展示を替えて再オープンした。最初の「8月6日の惨状」コーナーに踏み入ると、薄暗い照明の下、大型のガラスケース内に焼け焦げた学生服や水筒が浮かぶ。市中心部での建物疎開作業に動員され被爆死した学徒23人の遺品と、来館者は出合う。

自作資料を手に

 「この学生服は物資不足の中、お母さんが半ズボンに布を継いで長ズボンに直したんです」。今月中旬。案内役を務めたピースボランティアの佐伯晏至(やすし)さん(79)=安佐南区=は自作の資料を手に、一つ一つの遺品にまつわる家族のエピソードを伝える。青森県八戸市の主婦畠山彰子さん(62)は「家族の思いを知り、より身に迫るものがあった」と見入った。

 展示の変更を巡っては、有識者の検討会議が約8年半にわたって議論。遺品をはじめ「実物資料」に向き合ってもらう構成を固めた。被害の悲惨さを「感じてもらう」ために説明文は極力減らし、照明も抑えて遺品に集中できる環境とした。再オープン後の1日当たりの平均入館者数は6千人を超え、前年同期比で3割増えた。外国人も多く高い関心を集めている。

 それだけに、佐伯さんはもどかしさを覚える。「惨状」コーナーは被爆直後を想像してもらうため、学徒の遺品を散乱したように配置。遺影はケース脇にまとめて展示し、個別の説明文はあえて添えていない。有料で貸し出す音声ガイドも、解説は3人分だけだ。

 「学徒の遺品を、ただの『被爆した服』として通り過ぎてほしくない」と佐伯さん。母の着物の布地から姉が手作りしたかばん、家族が遺体すら見つけられなかったこと…。なぜ遺品を寄せたのか。その思いを伝えるため、ボランティア仲間と遺品にまつわるエピソードを資料にまとめた。「誰の持ち物だったかだけでも、分かりやすくしてほしい」と要望する。

 元高校教諭の竹内良男さん(70)=東京都立川市=も、新たにできた外国人被爆者のコーナーにも通じる視点だと考える。修学旅行の引率などで30年以上にわたり広島に通ってきた。資料館での反応を振り返り「一人一人の名前を記す具体性こそが、心に訴えかける力になる」と見立てる。

諮問機関で議論

 同コーナーには、韓国原爆被害者協会名誉会長の郭貴勲(カク・キフン)さんやドイツ人神父、洋服店を営んでいたロシア人家族たちの写真が置かれる。「日本人だけが被害を受けたと思っている人は多い。写真や名前付きで紹介した意義は大きい」と評価する。

 一方で、なぜこの人たちが広島にいたのかを問い掛ける仕掛けがあってもいいと指摘。日本による朝鮮半島の植民地支配などを挙げ「扱いが容易でないテーマもあるが、踏み込んで展示することでさらに議論を深めてほしい」と願う。

 資料館は今後、同館の運営に関する外部の諮問機関を設ける方針を示す。学芸課の加藤秀一課長は「新たに分かった課題はそうした公開の場で議論し対応していく」と説明する。実態を知る被爆者がさらに高齢化していく中で、展示の在り方は絶えず問われている。(明知隼二)

原爆資料館
 1955年に本館、94年に東館が開館した。広島市は国重要文化財の本館の耐震化を進め、被爆の惨状や核兵器の非人道性をより分かりやすく伝える施設を目指し、2014年3月に全面改修に着手。東館は同年9月に展示スペースを閉じて改装し、17年4月に再び開館した。入れ替わって本館を閉鎖し、内部改修と耐震化を進めた。耐震化工事は19年度中に終える。18年度の入館者数は152万2453人。外国人の数は43万4838人で6年連続最多を更新した。

(2019年7月26日朝刊掲載)

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <1> 岐路の平和宣言

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ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <4> 被爆遺構

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <5> 公園の外へ

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <6> 平和首長会議

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <7> 減る証言者

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