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連載・特集

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <4> 被爆遺構

市民の生活 語る「証人」 常設展示へ 進む発掘

 黒く炭化した畳、崩れて赤茶色に焼けた壁土…。広島市安佐北区に住む土井美代子さん(89)は7日、平和記念公園(中区)で市が発掘している旧中島地区の被爆遺構を見学した。「ここに街があったと伝えてほしい」。地下60~90センチの地層に眠っていた、かつての「ご近所」の木造家屋跡を見つめた。

4400人の暮らし

 米国の原爆投下で爆心地から2キロ以内はほぼ全壊全焼した。大半が500メートル以内の同地区は家や店が並び、約4400人が暮らしていたとされる。原爆資料館東館の北側で掘り進められる旧天神町筋付近。土井さんのわが家があった「材木町78番地」は筋から数軒西だった。

 同じ日、市民団体「広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会」が開いた市民集会で、街と家族の被爆前後を語った。「一銭洋食のお店があってね」「近くの銭湯に行って」…。

 そして「8月6日」。広島女子商2年だった土井さんは爆心地から710メートルの福屋百貨店内に動員されており、九死に一生を得た。しかし、母三好ヨシ子さん=当時(37)、妹の登喜子さん=同(13)、博子さん=同(6)、操さん=同(3)、弟繁治さん=同(9)=の5人が犠牲になった。

 「こんな悲しいことは二度と起きてほしくない」。自宅跡で臨月だった母の腹巻きが残る遺骨を確認した父の故三好茂さん。生前にその記憶を描いた「原爆の絵」を見せると、目を手で覆う参加者もいた。

 土井さんは80代後半を迎えて証言の依頼を断ることもあったが、被爆遺構を生かす動きに協力できればと登壇した。「促進する会」の世話人代表の多賀俊介さん(69)は「平和記念公園一帯が昔から公園ではなく、さまざまな市民の生活があったと伝えたい」と話す。地下遺構は「証人」となる。

 ただ、集会では元住民たちから課題を指摘する声も上がった。「今見つかっている遺構では、生活のにおいが薄い」…。現場は土井さんの同級生で被爆死した加藤倭子(しずこ)さん=同(15)=の実家の材木店付近とみられているが、この店の跡と直接示すものはまだ見つかっていない。

劣化リスクも

 市は2020年度からの遺構の常設展示を目指す。これまで約25メートルの調査を終え、今後は東に約25平方メートル広げる。17年3月まで原爆資料館本館の耐震工事に伴い敷地約2100平方メートルで進めた発掘では、炭化したしゃもじや銭湯のタイルなど多くの出土品が確認されただけに、さらに拡大を望む元住民もいる。ただ、市は「国名勝の公園景観を保全しながら進める必要がある」などとして理解を求める。

 市が遺構整備の意見を聴いた7日の懇談会では、座長を務める三浦正幸・広島大名誉教授(建築史)が、発掘による遺構の劣化リスクも指摘。まずは必要最小限の発掘で20年度までに展示整備した上で、世界への発信の効果を見極めながら、その後に拡大の是非を議論するよう提案した。

 平和記念公園は戦後、焼け跡に盛り土をして整備したため遺構が残ったとみられる。世界に知れ渡った公園の景観と、地下に眠り続けた街の遺構―。被爆の実態を伝える力を増す公園像を市民や専門家とともに議論する時が来ている。(水川恭輔)

旧中島地区の被爆遺構の展示整備
 現在は平和記念公園(広島市中区)となった旧中島地区一帯の被爆前の暮らしと、米国の原爆投下による壊滅を伝えるため市が計画。被爆75年の2020年度からの公開を目指し、5月から原爆資料館東館北側で整備に向けた発掘を進めている。8月6日の平和記念式典のため7月7日の見学会後、埋め戻した。式典後に再開する。

(2019年7月28日朝刊掲載)

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <1> 岐路の平和宣言

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <2> 新たな本館で

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <3> 訪日客に

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <5> 公園の外へ

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <6> 平和首長会議

ヒロシマの発信はいま 被爆74年 <7> 減る証言者

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