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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 27歳の生と死 <下> 無言の帰国

急死を悼み 治療望む 被爆者への援護促す

 中林智子さんは、バイオリン曲「チゴイネルワイゼン」を好んだという。19歳だった妹繁子さんは、ラジオからたまたま流れたその調べに耳を澄ませていた。両親と被爆した広島市白島北町(現中区)の自宅。そこにサイドカーに乗った記者が現れた。

 井上繁子さん(83)=東京都杉並区=は、姉の急死をニューヨーク発共同電で告げられた。「信じられません」。次女の帰りを待つ両親も、続く各新聞社の記者にそう答えるしかなかった。

 1956年5月24日、智子さんは3回目の手術、右腕傷痕の除去に臨む。だが午後3時20分心臓に障害が起き、同9時25分に息を引き取る(時間はニューヨーク・タイムズ25日付による)。日本人医師も立ち会った解剖結果は「心臓まひ」。日米各紙には「26歳」とあるが、実際は27歳と2カ月の死だった。

関連文書を保存

 笹森(旧姓新本)恵子さん(87)=カリフォルニア州=は、ガールズ専用の別病室で手術を翌日に控える仲間らといた。「みんな言葉が出なかった」。渡米治療をきっかけに米国で生きる。被爆者として80年に上院で初めて証言し、教会や大学で今も続けている。

 洗礼を受けていた智子さんのミサには、24人となった全員が参列した。

 「手術は嫌だし全身麻酔は怖い。でも、よくなりたい。学校で敵だと教えられた人たちの愛に触れた。ここで私たちがしっかりしなければ、と誓い合った」。笹森さんは姉を見舞うために帰郷した今夏、その時の思いを一気に語った。

 広島市は「原爆乙女の渡米治療」と題して一連の公文書を永年保存していた。

 智子さんの急死を受け、当時の渡辺忠雄市長が56年5月26日、事業を率いたノーマン・カズンズ氏に宛てた原文もある。「家族たちを悲嘆の底に沈めましたが…凡(すべ)ては運命と思い定めて居られるようで…お骨にして同行の娘さんたちと一緒に帰らせて戴(いただ)きたい」

 他の留守家族の衝撃も大きかった。同29日、市役所で現地からの国際電話による説明内容を聞き、渡米時に付き添った医師の発意でこう打電した。「不慮の死を悼むとともに、この偉大なる事業が…挫折しないことを祈ります。変わらざる信頼を以(もっ)て広島の家族達」。治療は継続された。

「原爆傷」と刻む

 国内では、結成間もない広島県原爆被害者団体協議会の藤居平一事務局長らが上京し6月4日、治療費の国庫負担など「被害者援護法」の制定を政府に要請する。智子さんの急死から運動を強めた。原爆医療法の施行は57年4月である。

 無言の智子さんは56年6月17日、第1陣9人と帰国する。当時62歳の父孟さんと57歳だった母美晴さんは、一行を乗せた米軍機が降り立った岩国空港で遺骨を受け取った。

 「恨み言を聞いたことはありません」。両親と暮らしていた繁子さんの話に、姉の篠原英子さん(91)=東京都三鷹市=は「本当なの?」と呈した。父は遺骨を抱いた年の12月15日、脳出血で死去していた。

 「治すはずが生きて帰れなかった。智子ちゃんは原爆に殺され研究材料にもされたんじゃないの」。拭い去れない、わだかまりを妹に告げる形で語った。

 姉妹は自身の被爆も詳しく話したことはないという。応じたのは智子さんへの尽きせぬ思いであり、原爆の恐ろしさを知ってほしいとの願いからだ。広島市郊外の墓地を訪ねるとこう刻まれていた。「マリヤ智子 原爆傷にて没」(西本雅実)

(2019年8月5日朝刊掲載)

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