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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 香口マツエさん―1便遅れ被爆死免れる

香口マツエさん(94)=広島市中区

苦しい時こそ助け合い おむすび握り

 香口(旧姓浅尾)マツエさん(94)は、家族以外に自分の被爆体験を話したことがありませんでした。戦後は子育てに忙(いそが)しく、毎日を懸命(けんめい)に生きてきましたが、90歳を過ぎた今、「元気なうちに若い人たちに伝えたい」との思いが強くなりました。家族の後押しもあって語ることを決意し、「あの日」のつらい記憶をたどりました。

 父六ノ丞(ろくのじょう)さん、母ワサさん、きょうだい6人との9人家族でした。香口さんは上から5番目。両親は、一時的に米国に移民して得た資金で江波町(現広島市中区)の自宅周辺に畑を持ち、育てた野菜を売って生計を立てていました。

 香口さんは進徳高等女学校(現進徳女子高)を卒業後、日本生命広島支店に勤(つと)めていました。1945年当時は20歳。8月6日の朝、いつも通りに自宅近くからバスで出勤(しゅっきん)しました。その日は乗客がとても多かったため、普段よりも遅(おそ)い便(びん)に乗りました。

 バスが住吉橋を渡(わた)り、水主町(現中区加古町)まで来た時でした。突然、鋭(するど)い光に襲(おそ)われました。猛烈(もうれつ)な熱風が車内に吹(ふ)き込(こ)んで息苦しくなり、口をハンカチで押さえながら必死に車外へ飛び出しました。

 爆心地(ばくしんち)から約900メートル。車内にいたほかの乗客は大けがを負い、中には即死(そくし)した人もいましたが、満員のバスの中央部に立っていた香口さんは奇跡的(きせきてき)に軽いけがで済(す)みました。

 とにかく自宅に戻(もど)ろうと思ったものの、混乱(こんらん)の極みの中、そこにいた軍人が「江波へ行く道も危ない」と言います。途方(とほう)に暮(く)れ、歩いて会社に向かうことにしました。爆心地からわずか約180メートルにあった建物は、2階の床が落ち、壁(かべ)は大きく折れ曲がっていました。同僚(どうりょう)28人が犠牲(ぎせい)になりました。

 もし、1本早いバスで市中心部に向かっていたら―。原爆が落とされた時、香口さんもすでに爆心直下にいたでしょう。目の当たりにした惨状(さんじょう)は「口にしたくない」と打ち明けます。「経験した人にしか、あのひどさは分からない」

 その日の昼すぎ、自宅にたどり着くと、大けがを負った軍人や近くの学校の教員たち十数人がひしめくように、庭や居間で体を横たえていました。「痛い、痛い」とあちこちから、うめき声が聞こえます。まるで救護所でした。家の防空壕(ぼうくうごう)に保管していた米を炊(た)き、おむすびを作ってあげました。戦争中、米は何よりも貴重な食糧。もったいない、と感じながらも「苦しい時こそ助け合わないといけない」と思ったそうです。

 舟入(現中区)辺りで被爆した父は、下半身に大やけどを負いました。毎日うみを取らないと、すぐにウジが湧(わ)きました。足を引きずりながら、自分より重傷の被災者を救護するため必死に動いていた姿を鮮明に覚えています。

 父の弟や、その息子が十日市町(現中区)から逃げてきましたがすぐに亡くなりました。火葬(かそう)するため近くにあった陸軍江波射撃場に遺体を運ぶと、引き取り手のない遺体がいくつも転がっていました。

 香口さんは、23歳で近所に住んでいた真作さんと結婚。子ども3人に恵(めぐ)まれ、7人の孫と、16人のひ孫がいます。現在、中区の介護付きホームで穏(おだ)やかに暮らしています。

 「戦争はしちゃいけん」。大家族に囲まれて幸せをかみしめるたびに思います。子どもたちが安心して暮らせるよう「みんなが笑顔で握手(あくしゅ)できるような世界になってほしい」と強く願っています。(新山京子)

私たち10代の感想

同じ人間 支え合い大切

 香口さんの家族は、被爆後の混乱の中、自分の家に逃れてきたけが人に貴重な食糧を分け与えたり、亡くなった人たちを自ら火葬したりしたのは、他人への思いやりがあったからだと感じました。戦後は原爆を落とした米国人とも交流していたそうです。同じ人間として互いに支え合い、憎(にく)しみを持たず生きていくことが大切だと分かりました。(高2フィリックス・ウォルシュ)

「世界と仲良く」印象的

 いつもと違(ちが)う時間帯のバスに乗ったなど、偶然(ぐうぜん)が重なって命が助かり、大勢の孫やひ孫に恵まれていることは奇跡(きせき)だと思います。香口さんの「争いをなくすために世界の人たちともっと仲良くしてほしい」という言葉が印象的でした。これからも私は積極的に海外の人と交流して、日本のことを知ってもらうようにしたいです。(高1森本柚衣)

(2019年10月7日朝刊掲載)

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