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社説・コラム

[ひと まち] 姉奪った戦争 記録残す

 立ち上るきのこ雲を、ぼうぜんと見つめる横顔。74年前の倉橋島(現呉市)で見た姉の表情を、棚田芙美子さん(82)=呉市=は忘れられない。その姉は、被爆直後の広島に渡り、病気で亡くなった。大好きな姉を奪った戦争を二度と繰り返してはいけない―。そんな信念を込めて高校教師時代、教え子と3冊の戦争体験記録集をまとめた。この思いを、記録を、後世に継いでいきたいと願う。

 18歳上の姉は女学校の教師だった。棚田さんの小学校入学に合わせ、自分のはかまを崩してセーラー服とワンピースを仕立ててくれた。でも悪さをすると、こっぴどく𠮟られた。厳しくも優しい自慢の姉だった。

 1945年8月6日、姉は帰省していた倉橋島の実家で、当時8歳だった棚田さんの隣にいた。「広島が大変だ」。窓越しにきのこ雲を見てそう話した後、急いで嫁ぎ先のあった広島市西区に戻って入市被爆した。2年後、バセドー病で亡くなった。

 姉の背中を追うように60年、高校教師になった。社会は、戦争から目を背けるような雰囲気が強まるばかり。生徒にはきちんと向き合ってほしいと、75年、赴任していた呉豊栄高(現呉高)で、生徒に両親の戦争体験を聞き取ってもらう課題を出した。

 親子だから話せること、感じ取れることがあると考えての課題だった。一方で自身は、姉のことを家族以外に話せずにいた。

 課題の発表では、震えるような内容が続いた。「数十体の遺体が並べられた広場の中を幾日も通学した」「逃げるのに精いっぱいで下着のままで火の中を必死で走った」―。被爆後の広島の惨状や、呉空襲のさなかに逃げ惑う様子が具体的に語られた。記録に残す使命感に駆られ、生徒とガリ版を彫った。

 81年と83年にも同校で生徒に声を掛け、同様の記録集をまとめた。83年の冊子に棚田さんは初めて、戦争で姉が犠牲になったことをつづった。「ありし日の姉を思い出したのです」。たった一文にどれほど勇気が必要だったか。生徒とその家族の思いを受けて、踏み出せた。

 今年8月、三津田高(呉市)の生徒と教師がかつてまとめた戦争体験記が大和ミュージアム(同)に寄贈されることを知った。戦争の歴史を次世代につなぐいい方法だと感じ、自身も続こうと、かつて関わった記録集を寄贈した。でもその帰り道にふとさみしくなって電話し、「生徒と向き合った証し」と表紙だけコピーを送ってもらった。

 9月にまたミュージアムを訪れた。館を出て表紙のコピーを抱きしめるように持ち、「戦争の記憶を風化させては駄目」とつぶやいて空を見上げた。(池本泰尚)

(2019年11月2日朝刊掲載)

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