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イエズス会16人被爆 ドイツ人神父ら 広島の惨禍 発信

 1945年8月6日にイエズス会の外国人神父・修道士16人が被爆していた。研究者の検証から分かった。広島市の幟町教会(現中区)でドイツ人神父4人、楠木町(西区)で同1人、市郊外祇園町の長束修練院(安佐南区)でスペイン人院長と朝鮮人修道士2人を含む11人を確認。未曽有の中で救護に努め、ヒロシマの実態をいち早く世界へ伝えていた。24日に訪れるローマ法王フランシスコはイエズス会の出身でもある。

 「原爆犠牲者の追悼と慰霊、人々の友愛と平和のしるし」。世界平和記念聖堂(54年完成)の建設に尽力したフーゴ・ラサール神父や、長束への避難者の救護を率い65年イエズス会総長に就いたペドロ・アルペ神父は、メディアでも取り上げられてきたが、被爆した神父の全容は不明だった。

 広島市出身で日本学術振興会特別研究員の四條知恵さん(41)が、同会日本管区本部(東京)所蔵の史料に当たり、長束修練院からローマ本部などへの報告書も見つけた。45年当時は同会ドイツ管区の「日本宣教地名簿」から広島関連を整理したマイケル・ミルワード上智大名誉教授(74)らの協力を記者も得て、各自の被爆状況を追い確かめた。

 爆心地の東約1・2キロの幟町教会では、ラサール宣教上長ら神父4人が木造司祭館で被爆し、敷地内に住む伝道師の妻子3人や保母2人も助けて、京橋川に面する泉邸(現縮景園)へ避難する。日本人神学生が長束へ連絡に向かった。

 修練院には、イエズス会創設の上智大で教えるヨハネス・ジーメス神父らが疎開もしていた。一団は「米国人」と間違われながら市内へ入り、倒壊家屋から市民の救出にも当たった。

 日本の「同盟国」ドイツや「中立国」スペインの出身者は抑留を免れていたが、修練院からは神父の一部が8月1日に広島県北・帝釈峡へ移されていた。6日当日の所在不明を除き11人の被爆を突き止めた。

 さらに、ペーター・コップ神父が、楠木町の煉獄(れんごく)援助修道会三篠修道院でシスターとともに被爆していた。日本人2人、フランスとイタリア出身の各2人、アイルランド1人の7人と長束へ向かい、救護にも努めていた。

 また、ジーメス神父が被爆1カ月後に書いた手記を、原爆調査の米軍マンハッタン管区調査団が入手し、全文が46年6月提出の報告書に収められ、抄録が米誌タイム同2月11日号に、ラサール神父の手記も会報誌同3月号に掲載されていたことも分かった。(西本雅実)

活動拠点だった

検証に当たった四條知恵さんの話
 カトリックといえば長崎のイメージがあるが、広島はイエズス会の活動拠点だった。被爆した神父らは国際的なネットワークや語学力を生かし、原爆の惨禍をいち早く発信し、世界的に伝えてきた。果たした役割は大きい。朝鮮半島出身のカトリック教徒も広島で被爆した。法王訪問を、語られることがあまりない原爆被害を見つめ直す機会にもしてほしい。

イエズス会
 カトリック教会の男子修道会。キリスト教を1549年日本に伝えたフランシスコ・ザビエルは創立者の一人。同会宣教師らが1908年再渡航し、上智大の創設など教育にも力を注ぐ。20年代から中国5県を対象とする広島地区の布教を担った。今も世界的な活動を続ける。

(2019年11月12日朝刊掲載)

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