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社説・コラム

社説 中村医師 銃撃受け死亡 アフガン復興 思い半ば

 その命を奪った理不尽な凶行に怒りと悔しさを禁じ得ない。

 戦乱と干ばつで荒廃したアフガニスタンで長年、人道支援に取り組んできた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師が現地で銃撃され、死亡した。

 あれほど現地住民から信頼され、希望と勇気を与え続けてきた日本人はいない。志半ばの死を深く悼む。

 医師として活動を続ける中で「水とパン」の不足が病根だと見抜いたのは、徹底した現場主義を実践していたからだろう。井戸を掘って用水路を引き、農村の再生に手を尽くしてきた。

 隣り合わせの危険を顧みず、貧しい人々に寄り添う活動は、現地でも高く評価されていた。アフガンの復興にとっても損失は大きかろう。

 車でかんがい工事の作業現場に向かう途中、武装した男らに襲われ、中村さんを含む計6人が殺害された。現場は東部のナンガルハル州で、イスラム過激派組織などが活動し、治安が悪化している地域だった。

 誰がどういった狙いで襲ったのか詳細は定かではない。安全に配慮し護衛の車も同行していたというが、「丸腰」で活動に当たっていた中村さんを狙ったとすれば、卑劣で許すことのできない蛮行だ。

 中村さんは1984年、パキスタン北西部のペシャワルでハンセン病患者らの治療活動を始めた。無医地区に診療所を相次いで開設し、スタッフを養成しながら医療体制を整えた。

 転機は2000年の大干ばつだった。栄養失調の子どもたちが本来は治せるはずの感染症で次々と命を落としていった。

 「飢えは薬では治せない」と医療の限界を実感した。「100の診療所より1本の用水路が必要」を合言葉に、自ら重機を運転して井戸を掘って用水路建設に乗り出した。

 目の前で倒れている人を見たら、放っておけないという気持ちに後押しされることはあろう。ただ言葉では理解できても、医療の枠を超え、行動に踏み出すのは難しい。

 「誰も行かないところに行き、誰もやりたがらないことをやる」。援助する側から見るのではなく、常に住民の視点で本当のニーズを探り、支援を続ける現地主義に徹した。それを30年以上もひたすら続けてきたことに敬意を表する。

 現地の人との信頼こそが安全保障という考えを実践した。国会参考人などさまざまな立場でも、軍事的な手段は市民レベルの活動の危険を高めると訴えてきた。

 広島、長崎に原爆が投下されながら、その後は「戦争をしない平和国家」として復興を果たした日本に対し、アフガンの人々は親密さと信頼感を抱いているとも繰り返していた。

 だが01年9月11日の米中枢同時テロを経て、タリバン政権が崩壊すると、日本のアフガン政策は「復興支援」と「国際テロ対策協力」の2本立てとなった。対日感情も変わってきたと語っていた。「前は日の丸をつけていれば、武装集団に襲われることはなかったのに、9・11以降は逆に危なくなった」

 安全保障や平和構築を市民レベルで語り続けた中村さんの言葉をいま一度かみしめなければならない。

(2019年12月6日朝刊掲載)

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