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連載・特集

マツダ100年 車づくりと地域 創業家 原爆

被爆地と会社 再建に全力

三輪トラック 走る希望

 「重次郎はこの部屋で亡くなったんですな」。広島市東区の住宅街に立つ木造平屋。自動車販売の広島マツダ(中区)名誉会長、松田欣也さん(82)が自宅の和室で語り始めた。手には1枚の家族写真。東洋工業(現マツダ)の実質的な創業者で祖父の松田重次郎氏が、はかま姿でいすに腰掛けている。

順番待ちの偶然

 欣也さんは戦中の一時期、祖父と暮らした。「話をせがむと彫刻職人の左甚五郎の落語などを教えてくれた。話がうまかった」。職人が功を成す話を好んだという。最期をみとったのは1952年3月、76歳だった。

 東洋工業社長として三輪トラックの発売を指揮し、自動車事業に参入した重次郎氏。だが、欣也さんと暮らした時期は軍の命令で兵器を造らされ、売り上げの半分が小銃に。37年に約3千台造った三輪トラックは44年、約100台に激減していた。

 そして45年8月6日、広島の上空で原爆がさく裂した。東洋工業は、鶴見町(現中区)で建物疎開の作業をしていた従業員たち119人を亡くした。

 重次郎氏は70歳の誕生日だった。出社前に大手町(同)の理髪店に行くと、別の客とわずかの差で順番が先になった。散髪を終え、車で荒神橋を過ぎて西蟹屋町(現南区)辺りまで離れた時が午前8時15分。店への到着が少しでも遅れていれば、爆心地近くにいた可能性が高い。

 広島県府中町の東洋工業本社は被害が小さかった。戦後、重次郎氏は当時を「幸運を幸運として平和日本、文化日本の産業のために働き抜こうと決心した」と振り返った。実際に地域のために動き、復興を強く後押しした。

 被爆直後には社の食堂や寄宿舎を負傷者に開放。庁舎を失った県庁や裁判所を受け入れた。本社が壊滅した中国新聞社が間借りを願った際には「2階が空いたから自由に使いたまえ」と快諾。事務器具などの使用も認めた。

 幸運ばかりではなかった。三輪トラックを売るマツダモータース(現広島マツダ)を営んでいた次男宗弥(そうや)氏は爆心地近くの本川西岸の本社で全従業員7人と共に命を落とした。長男恒次氏が東洋工業で生産を担う一方、宗弥氏は販売を受け持ち、事業を支える両輪の1人だった。当時8歳の欣也さんの父でもある。

 多くの軍需工場が手持ちの材料で鍋や釜などの生活用品を造った戦後すぐ。専務だった恒次氏は宣言した。「鍋や釜では大工場を維持できない。初志を貫こう」。12月には三輪トラックの生産を再開。「車づくり以外にわしの道はなかったんや」と20年後の取材に語った。

平和のタワーも

 販売面では恒次氏の長男耕平氏が再建に尽くした。欣也さん一家が移り住んだ安芸高田市の東洋工業の寮に冬、慶応大の学生だった耕平氏が訪ねて来た。よく面倒を見てくれた宗弥氏の会社を立て直すためだった。

 欣也さんの姉武沢八重子さん(84)=浜松市=は「耕平さんがリュックを背負っていろんな書類を取りに来てね。『マツダモータースをやらせてもらいたい』って」と明かす。46年1月に会社を再開し、後に社長に就任。三輪トラックの販売を軌道に載せた。その車は被爆地を走り回り、市民に勇気を与えた。

 復興を遂げた現在。原爆ドーム(中区)東隣の複合ビルを多くの観光客が訪れる。広島マツダが自社ビルを改修した「おりづるタワー」だ。事業再興から70年後の2016年7月に開業した。欣也さんの長男で同社の松田哲也会長(50)の悲願だった。親族の歩みを胸に「平和に貢献したい」と実現させた。

 屋上の展望スペースから市街地を眺める。ビルが立ち並び、マツダ車が縫うように駆けていた。(井上龍太郎)

<両社の歴代社長>(敬称略)

マツダ
1921~51年 松田重次郎
  51~70年  松田恒次
  70~77年 松田耕平

広島マツダ
1933~45年 松田宗弥(45年被爆死)
  46~56年 松田教治
  56~61年 松田耕平
62~2002年 松田欣也
  05~15年 松田哲也

(2019年12月18日朝刊掲載)

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