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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現 本通り <3> 袋町国民学校

亡き級友の姿 後世に

有志で卒業アルバム

 白い体育着に帽子姿の男子児童たちが懸命に綱引きをしている。3年生か4年生だという。袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)の運動会を収めた写真で、1941年あるいは42年の撮影。青空に響く子どもたちの歓声が、時を超えて聞こえてきそうだ。

児童はほぼ全滅

 学校は、現在の本通り商店街から南へ約150メートル。広島原爆が落とされる前の45年春に卒業した今田宏行さん(87)=中区=が「自分は写っていませんが、親が見に来ていたので同級生と一緒に大いに張り切ったのを覚えていますよ」と懐かしそうに振り返った。

 写真は「戦争中で、母校では手にすることがかなわなかったから」と、99年に同級生たちと手持ちのカットを持ち寄り作成した「卒業アルバム」の中の1枚だ。撮影時期は、太平洋戦争の開戦と重なる。43年には運動会が中止に。45年8月6日、爆心地から500メートル圏の同校は原爆に焼かれ、校内にいた児童はほぼ全滅した。

 今田さんの生家は、猿楽町にあり、現在の原爆ドームのそばだった。父の応召を機に45年春、八幡村(現佐伯区)へ家族で疎開していたが、自身は爆心地から約2キロで被爆し顔や手に大やけどを負った。市立第一工業学校(現県立広島工高)に入学し、建物疎開作業のため皆実町(現南区)へ向かっていた。

 戦後に父が復員すると、市中心部に住まいを戻した。忙しく働き、家庭を築いた40代の時、近所で袋町国民学校の同級生と再会し話が及んだ。「どのくらい生き残ったんだろう」。旧友の消息をたどり始めた。

被爆死71人判明

 男子児童を今田さんが調べ、女子児童の所在については同級生だった宍戸和子さんが協力してくれた。約60人とつながり、住所録を作った。そして皆で実現させたのが「修学旅行」とアルバム作成だった。表紙タイトルは、校歌から引用した「帽影」。白神社であった新1年生の「入学祈願」、運動会や6年生時の集合写真などを並べた。加えて、児童が進学した各学校の慰霊碑や資料を手掛かりに、被爆死した同級生の名前を捜して記した。分かっただけで71人。「こんなに多かったんか」と悲しみがこみ上げた。

 あれからさらに二十余年。県立広島第一高等女学校(現皆実高)の同級生の原爆犠牲者223人の慰霊も続けた宍戸さんは、昨年8月に他界した。再会を喜び合った友も、すでに亡くなった人が少なくない。

 今田さんは昨年12月、母校を訪れグラウンドに立った。アルバムを手にしながら、福田忠且校長(53)に「思い出しますよ」と語りかけた。「ここで学んでいた同級生たちの存在を、写真の記録にして将来に残したかった。それが、生き残った者の務めだと」。今田さんは昨年、アルバムの写真データを原爆資料館(中区)に提供した。(山本祐司)

(2020年1月6日朝刊掲載)

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