×

社説・コラム

『潮流』 八杉康夫さんと「川原石」

■特別論説委員 佐田尾信作

 沈みゆく戦艦大和から生還し、さらに入市被爆した前半生を語り続けた、福山市の八杉康夫さんの訃報を聞いた。92歳。筆者の手元には、八杉さんが筆者の亡き父に宛てて「被爆の証人を見つけてあげるのが遅くなって申し訳ない」とつづった太い万年筆の手紙がある。父が被爆者健康手帳を取得する際、随分手を尽くしてもらったのだ。20年余り前の日付である。

 大和の沖縄特攻を身をもって知る人として知られた人だが、終戦は呉市で迎えている。呉鎮守府特別陸戦隊23大隊という秘匿部隊に配属されていた。敗色濃い中、乗れる艦船はない。海軍水兵長に進級しながらも、海と関係のない「本土決戦」のこの部隊に回された。大和沈没は固く口止めされたままだった。

 陸戦隊といっても、部下は筆者の父のような田舎からぽっと出の少年たちばかりである。「やってきた連中は銃の撃ち方も手旗信号も何も知らない素人部隊」と、八杉さんは著書で述べている。呉市川原石の山中に天幕を張って「肉迫攻撃」の訓練をしたようだが「絶望的な訓練」だったとも振り返っている。

 やがて部隊は本土決戦に臨むことなく原爆投下直後の広島市内に入れと命じられる。筆者の父も広島駅の復旧に従事して被爆した。八杉さんもまた被爆し、記録の少ない部隊の全容を戦後も追い続ける。現実を知らぬまま兵隊になったかつての新兵たちに被爆者健康手帳を取ってもらいたい、という思いが、父への手紙から伝わってくる。

 「残照の川原石」という証言集を、八杉さんは残した。23大隊を知る数少ない手掛かりだろう。筆者が記事で取り上げたところ、ネット検索で知った教育系の大学から教材に使いたい旨の依頼もあった。昨年のことである。八杉さんに再会して伝えたいと思っていたが、もうかなわない。

(2020年1月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ