×

連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <4> 被災と被爆と

二つの惨状 心身に刻む

後悔すまいと勉強を重ねる

 安芸灘諸島の呉市豊町生まれの片山保博さん(92)は1945年3月、広海軍工廠(こうしょう)で空襲に被災。その後、広島で入市被爆した。

「勝てるものか」

 広工廠には終戦間際まで3年間いた。42年春から工員養成所で学びながら鋳物工場で働いた。養成期間は3年間だったが、戦況が厳しさを増し、44年秋に繰り上げ卒業。特殊鋼を造る最新式の電気炉で成分分析を担当した。潜水艦のディーゼルエンジンの試運転にも同席し、燃焼に必要な酸素量などを調べた。

 機材の表記や作業日誌はドイツ語。上司から「これくらいは勉強せい」と分厚いドイツ語の専門書を渡された。仕事後に寄宿舎で学習した。「責任は重かったが、見込まれるのはありがたかった」

 戦争は「勝てるものか」と、冷めた目で見ていたという。日中戦争で、尊敬する近所の年上の男性たちが戦死し、突撃命令を真面目に実行する人が犠牲になる不条理を感じた。ドイツの滞在歴が長い上司からも「日本は資源がない。経済封鎖されたら何もできん」と聞いていた。

 45年3月19日午前、米軍機が現れ、逃げ込んだ工廠内の防空壕(ごう)を爆弾が直撃した。気が付くと砂に埋もれていた。頭部右側から後頭部にかけてけがを負った。外が見える所まではい出て、先輩に担ぎ出された。

 治療はけがの程度が軽い人から。片山さんは、助かる見込みが少ない人と共に横穴に寝かされた。周りの大人が「お母さん」と声を振り絞って亡くなっていく。自分も、親の顔を一目見たいという思いがよぎった。けがは治るのに2カ月以上要した。

長く体調不良に

 その後、大竹市にあった大竹海兵団入りが決まり、出発を翌日に控えた8月6日、豊町で原爆のきのこ雲を遠望した。7日に広島へ。街は全身にやけどを負い、水を求める人であふれていた。駅の水道で水をくんで差し出した。

 その後、歯茎から出血、長く体調不良に苦しんだ。戦後、古里で家業のかんきつ作りを継いだが、工廠の技術は生かせなかった。それでも空襲の体験から「後悔だけはしない人生にする」と誓った。勉強が必要だと感じ、静岡県のかんきつ試験場で学び、仕事に励んだ。旧豊町議も務めた。

 戦後75年、日本は戦火に巻き込まれてはいない。「戦争ほどばかで惨めなことはない、と知っている人間が生きていたから」だと思っている。(見田崇志)

(2020年1月29日朝刊掲載)

関連記事はこちら

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <1> 91歳の同級生

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <2> 教育の村

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <3> 最先端の地

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <5> 伝える努力

年別アーカイブ