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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 国の責任を問う <1> 給付金の「線引き」

「遺族も被爆」が条件

家族失う苦痛 何が違うのか

 久保陽子さん(81)=広島県海田町=は、新聞やテレビで「被爆者」の体験証言に接すると、時折ある思いがよぎるという。「私のような被害者のことも知ってほしい」。家族5人を原爆に奪われた。しかし自身は被爆しておらず、被爆者健康手帳は持っていない。

 生家は広島市の旧鷹匠町(現中区本川町)で針工場を営んでいた。両親と5人きょうだいの7人家族。久保さんは、戦況が厳しさを増していた1945年春、本川国民学校(現本川小)に入学したが、まもなく2歳下の弟と現在の廿日市市にあった叔父の家へ縁故疎開した。

 8月6日の早朝、母山本スエさん=当時(35)=を駅近くの踏切まで見送った。わが子を案じる母は、自宅と久保さんの疎開先をよく行き来していた。いつもは午前10時ごろ広島市内に向けて出発するのに「一緒に帰る、と泣かれるのがつらい」と弟の起床前に去った。「また来てね」と声を掛けると、母は手を振った。それが最後だった。

 午前8時15分、原爆が投下された。自宅は爆心地から約600メートル。スエさんと弟の哲司さん=同(1)=の遺骨は焼け跡にあった。同じく自宅で被爆した上の姉恭子さん=同(15)=は、全身に大やけどを負い6日後に息を引き取った。父要さん=同(45)=と、女学校2年で建物疎開作業に動員されていた泰子さん=同(13)=は、遺骨も見つかっていない。

 久保さんは涙をこらえながら、自宅跡を捜した親族から話を聞いた。「でも我慢しきれず、窓の方を向いて思い切り泣きました」

 祖父母が親代わりになった。鷹匠町に戻ることはかなわず、祖父は市郊外に小さな針工場を開いたが、食べていくのに精いっぱい。祖母は腰が悪く、久保さんが親戚の青果店から売り物にならない「野菜くず」をもらいに歩いた。

恋しさ消えず

 親への恋しさは消えなかった。小学校の参観日に背後で教室のドアが開くと、「お母さん?」と思わず振り向いた。駅で母に似た人を見たと聞き、探しに行ってみたことも。ある就職面接で「なぜ両親がいないのか」としつこく聞かれ、傷ついた。

 それでも縁あって電話交換手の職を得た。職場の組合活動に加わり、平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑前で核実験抗議の座り込みをした。78年には米国に派遣され、原爆投下国で「原爆体験」を語った。被爆者と一緒の活動だった。

 しかし、被爆者援護法が成立した94年末、思いも寄らなかった「線引き」を痛感させられる。

 国が同法に基づき、原爆犠牲者の遺族に一律10万円の「特別葬祭給付金」を支給すると聞いた。そのお金で家族5人にお経を上げたいと思った。ところが「受給できる遺族は被爆者健康手帳を持つ人だけ」だという。国が起こした戦争と米国の原爆のせいで家族を奪われたのは同じなのに、何が違うのか―。絶句した。

 国は、この給付金を「生存被爆者対策」だと説明した。原爆犠牲者の全遺族に「国家補償」として弔慰金を支給するよう求める被爆者団体に対して、一定に施策を提示しつつも「国家補償」として位置付けることは否定する。「放射線という特殊な被害を受けた人」に対象を限り、空襲などほかの戦争被害者への波及は避ける―。

「ごまかし」批判

 手帳を持つ広島の被爆者の間でも、国の意図を見抜いて「ごまかしだ」と批判する声が相次いだ。  それから四半世紀。久保さんの心の中で、国による「分断」への不信が今もくすぶる。家族を失い、生活の苦労を強いられた被害者は、被爆したかどうかを問わず数知れない。「お金がほしかったんじゃない。国に原爆、戦争の悲惨な被害にもっと責任を持って向き合ってほしいんです」。久保さんは願う。(水川恭輔)

(2020年5月19日朝刊掲載)

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