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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 国の責任を問う <2> まどうてくれ

全ての死者に償いを

非核と不戦 誓う証しに

 広島市外に身を寄せていた6歳の時に家族5人を原爆で失った久保陽子さん(81)=広島県海田町=は、祖母がつぶやいた一言が忘れられない。「あんたらは親も家もなくしたのに…」。幼くして喪失を強いられながら、国は何もしてくれない、という意味だった。

 その時期と重なる1956年、日本被団協が結成された。国に求める「援護法」の要綱を発表し、国が救済責任を負うべき「原爆被害者」を定義した。「原爆障害者、原爆死没者ならびにその者の収入で生計をともにした者、している者」。久保さんのような、自身は被爆していない遺族も含まれた。

 当時の気持ちは「まどうてくれ」―。要綱の作成に関わった広島市出身で日本被団協の初代事務局長、故藤居平一さんは生前、広島大の聞き取りに、そう振り返っている。広島弁で「元通りにしてくれ」「償ってくれ」を意味する。

 大学進学先の東京にいる間に、父と妹を原爆に奪われた。その後古里に戻って民生委員を務めながら、被爆後の市民の窮状に触れた。銘木店だった家業をなげうって、被害者救援と原水爆禁止運動の先頭に立った。「僕は被爆者でなく、遺族。おやじをまどうてくれとか、広島をまどうてくれ、と言いたい」

「赤鬼」と呼ばれ

 56年の広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の結成総会は、「国家補償」を訴える垂れ幕を掲げた。被爆で右半身や顔に大やけどを負った阿部静子さん(93)=広島市南区=は「わらをもつかむ思い」で被爆者運動に加わった。

 外を歩けば、やけど痕の色から「赤鬼」と呼ばれた。「深く傷ついた私たちを助けてほしいという気持ちと、この悲惨が再び、誰の身にも起こることがないように、とひたすら願っての行動でした」。幼子を連れて上京し、国会請願の場でわが身をさらし訴えた。

 運動が実り、57年に旧原爆医療法が施行。生存被爆者の救済は、ついに一歩前進した。だが、被団協が合わせて求めた死没者の弔慰金や遺族年金の支給は盛り込まれなかった。

 その後、被爆者運動と共に歩んでいた「原水爆禁止運動」は路線対立で分裂。県被団協も二つに割れた。それでも「国家補償」を求める訴えは続く。故森滝市郎さんが理事長を務めていた県被団協は70年代、県内で独自の原爆死没者調査に取り組んだ。国が死没者調査をしない中、自分たちで埋もれた名前を刻み、政府に補償を迫るためでもあった。

 生存被爆者の施策が増えてもなお国家補償を求めることは「被爆者のエゴ」といった批判の声も聞かれた。県被団協などは、国の「戦没者援護」を例に粘り強く訴え続けた。

軍人らには援護

 国は52年、軍人・軍属たちのために「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定し、遺族年金制度などを創設。動員学徒や警防団員も「準軍属」として対象になった。これにより、建物疎開の作業に動員されて被爆死した中学生らは「戦没者」として扱われる。しかし、その時家にいた乳幼児や女性、お年寄りは対象外。民間人を含む全ての死者に償ってこそ、国による「非核」と「不戦」の誓いになるはず―。そう問い掛けた。

 被爆者団体が現在も求めている「償い」。年月とともに、被爆地でも問題意識が薄れがちではあるものの、日本被団協代表理事を務める箕牧智之さん(78)=北広島町=はこだわりを捨てていない。

 広島市内から集団疎開で来ている間に家族が全滅し、「原爆孤児」となった元児童たちがいた。証言を聞く会を開いたこともある。「幼くして両親を失った悲しみ、苦しみは想像を絶する。国は、我慢しろと言うだけでなく、何か手だてができたはずだ」(水川恭輔)

(2020年5月20日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆75年 国の責任を問う <1> 給付金の「線引き」

ヒロシマの空白 被爆75年 国の責任を問う <3> 追悼平和祈念館

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